江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年4月1日祈祷会(マルコ12:28-44、もっとも大事なものを捧げる)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.もっとも大事な戒め

・イエスを訴える口実を探すために、律法学者が来て、「どの戒めがもっとも大事か」と聞いてきた。
-マルコ12:28「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか』」。
・彼は律法の専門家であり、答えを知っている。マタイはこの質問の中にも悪意があったことを示唆する。
-マタイ22:34-36「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか』」。
・イエスは質問に真正面からお答えになる「神を愛し、人を愛しなさい。この二つに勝る戒めはない」と。
-マルコ12:29-31「イエスはお答えになった『第一の掟は、これである。“イスラエルよ、聞け、私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい”。第二の掟は、これである。“隣人を自分のように愛しなさい。この二つにまさる掟はほかにない”』」。
・前半は申命記6:4-5、後半はレビ記19:18からの引用である。イエスの教えは聖書の根源的な解釈から来る。律法を守ればよいとするユダヤ人に対して、律法の根源からその規定の意味を尋ねよとイエスは言われる。
-マタイ5:21-22「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。
・テキストは愛の三つの対象を示す。神と隣人と自己である。ここで自己愛が賞賛されているのではない。私たちは自己に寛容であり、自己に関心を持ち、自己の幸せを願う。その同じ関心を隣人にも持てと言われている。
-マタイ7:12「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
・律法学者はイエスの答えに同意する。彼は正しい答えを知っている。しかし、なお一歩が足りない。「神の国」に入るのに必要なことは、律法を正しく理解していることではなく、律法が求めるところを成就していることである。
-マルコ12:34-35「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった」。

2.もっとも大事なものを捧げる

・律法学者たちはメシアを「ダビデの子」と考えていた。そのメシアは「王の系譜」を継ぐもの、イスラエルを軍事的・政治的に導く解放者だった。しかし、イエスは「メシアはダビデの子ではない」と言われる。イエスの考えられるメシアとは力で支配する「栄光のメシア」ではなく、民のために死ぬ「苦難のメシア」だ。
-マルコ12:35-37「イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた『どうして律法学者たちは、メシアはダビデの子だと言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。“主は、私の主にお告げになった。私の右の座に着きなさい。私があなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで”と。このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか』。大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた」。
・38節から律法学者への批判が始まる。彼らは尊敬されることを求めるが、実際の彼らは貪欲であり、偽善的だと。マルコが簡潔に批判するのに対し、マタイは36節をかけて詳細な批判を展開する(マタイ23:1-36)。
-マルコ12:38-40「イエスは教えの中でこう言われた『律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる』」。
・その律法学者と対照的に、貧しいやもめの行為が賞賛される。
-マルコ12:41-44「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚・・・を入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた『この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は乏しい中から自分の持っている物を全て、生活費を全部入れたからである』」。
・この物語は全てを捧げることを求める物語ではない。イエスはやもめの献金の中に無私の心を、神を愛し隣人を愛する十字架の行為を見られた。だから評価された。イエスは香油を注ぐ女にも同じ評価をされる。
-マルコ14:4-6「何人かが憤慨して互いに言った『なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに』。・・・イエスは言われた「するままにさせておきなさい。・・・この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」。

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