江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年5月2日祈祷会(申命記19章、逃れの町)

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1.逃れの町

 

・申命記では、約束の地に入ったらならば、過って人を殺したものを救う為に、「逃れの町」を造れと命令される。民数記にも誤って人を殺した者が逃れるための「逃れの町」を造ることが命じられている(民数記35:10-13)。民数記が基本になって申命記が編集されたのであろう。

-申命記19:2-3「あなたの神、主があなたに与えて得させられる土地のうちに三つの町を選び分けなさい。そして道のりを測り、あなたの神、主があなたに受け継がせられる領土を三つに分け、人を殺した者がだれでもそこに逃げられるようにしなさい」。

・それは故意ではなく、過って人を殺した者を保護するためである。

-申命記19:4-7「意図してでなく、積年の恨みによるのでもないのに、隣人を殺してしまった者が逃れて生き延びうるのは、次のような場合である。すなわち、隣人と柴刈りに森の中に入り、木を切ろうと斧を手にして振り上げたとき、柄から斧の頭が抜けてその隣人に当たり、死なせたような場合である。彼はこれらの町の一つに逃れて生き延びることができる・・・その人は、積年の恨みによって殺したのではないから、殺される理由はない。私はそれゆえ、三つの町を選び分けるようにあなたに命じる」。

・しかし、故意に人を殺した者は保護されない。人の血を流した者は自己の血で償わなければいけない。神に属する命を殺した者は神に対して罪を犯した。故に償う必要がある。

-創世記9:5-6「あなたたちの命である血が流された場合、私は賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」。

・イエスは「兄弟を憎む者は兄弟を殺したのと同じだ」と言われる(マタイ5:21-22)。人はみな殺人者だ。その時、逃れの町が用意されていることは祝福だ。その町は領土が拡大したら、更に三つ造れと言われる。

-申命記19:8-9「私が、今日、あなたに命じるこの戒めをすべて忠実に守って、あなたの神、主を愛し、生涯その道に従って歩むならば、あなたの神、主は、先祖に誓われたようにあなたの領土を広げ、先祖に与えると約束された土地をことごとくあなたに与えられる。そのときには、この三つの町のほかに、更に三つの町を加えなさい」。

・罪なき者の血を流してはならない。しかし、罪は購わなければ為らない。有罪者を憐れんではいけない。

-申命記19:11-13「もしある者が隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかって打ち殺し、これらの町の一つに逃れたならば、その犯人を出した町の長老たちは、人を遣わして彼を捕らえ、復讐する者の手に引き渡して殺させねばならない。彼に憐れみをかけてはならない」。

・この厳しさの中で、私たちの贖いのためにイエスが十字架で血が流された。それは安価な救いではなく、私たちも相応の生き方が求められる。救いとは、重荷を無くす事ではなく、重荷を主が共に担われるということだ。

-マタイ11:28-30「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」

 

2.地境の移動の禁止と報復同害法

 

・土地は神の嗣業として与えられたものだから、地境を移動してはならないとされた。それは神のものだ。

-申命記19:14「あなたの神、主があなたに与えて得させられる土地で、すなわちあなたが受け継ぐ嗣業の土地で、最初の人々が定めたあなたの隣人との地境を動かしてはならない」。

・命は神から人に与えられたもので、たとえ王でさえ、その権利を侵してはならない。「生きて虜囚の辱めを受けず」として王への絶対服従、個人の否定を求めた日本の考え方は、無神論に立つものだ。

-申命記20:7「婚約しただけで、まだ結婚していない者はいないか。その人は家に帰りなさい。万一、戦死して、ほかの者が彼女と結婚するようなことにならないように。」

・刑罰は基本的には報復同害である。これは無差別の復讐を禁じたものとして、今日でも刑事法の基本だ。

-申命記19:21「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない」。

・しかし、イエスはこの律法を乗り越えよと言われた。打たれても打ち返すなと言われた。

-マタイ5:38-39「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。

・己の罪を考えた時、誰も打ち返すことは出来ない。罪を見据えた、新しい戒めがここに生まれた。

-ヨハネ8:7「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

 

3.申命記19章の黙想(逃れの町)

 

・逃れの町の規定は民数記にもある。

-民数記35:10-13「あなたたちがヨルダン川を渡って、カナンの土地に入る時、自分たちのために幾つかの町を選んで逃れの町とし、過って人を殺した者が逃げ込むことができるようにしなさい。町は、復讐する者からの逃れのために、あなたたちに用いられるであろう。人を殺した者が共同体の前に立って裁きを受ける前に、殺されることのないためである。あなたたちが定める町のうちに、六つの逃れの町がなければならない」。

・人を殺した者はその責任を取って死ななければならない。しかし、誤って人を殺した者は救われるべきだ。ここにおいて故意の殺人と過失死を分けよと命じられている。現代において死刑が確定した後、冤罪であったとされる事件が続出している。いずれも精度の低いDNA鑑定が原因となっている。日本では刑事司法の本来である「推定無罪」(確定するまでは無罪)が、マスコミ等の圧力により「推定有罪」(逮捕されれば有罪)となっている。無神論社会の怖さが日本にはある。

*足利事件(幼女誘拐殺人、1990年発生、2009年冤罪判明し、被告人釈放)

*飯塚事件(幼女誘拐殺人、1992年発生、2006年死刑確定、2008年死刑執行、その後死後再審請求)

・NHKドラマ「虎に翼」で描かれる「共亜事件」のモデルは、1934年に起こった戦前最大の疑獄事件「帝人事件」である。政治学者・菅谷幸浩さんは「政財界から16人が逮捕、裁判にかけられたが、4年後には全員無罪になる。これは当時の軍部も絡んだ複雑な政局と、無根拠のマスコミ報道によって作り出された、教訓の多い歴史的事件だ」という。帝人事件は枢密院副議長・平沼騏一郎(司法官僚出身)の策謀とする説が根強い。平沼は国家主義団体「国本社」の会長を務め、元老の西園寺と対立する一方、軍や右翼の中に平沼を慕う勢力がいた。このため、平沼陰謀説は当事者の間でも囁かれていた。「本来、公権力に求められるのは法的手続きの遵守と中立性である。検察が時代の空気に流され、公正さを見失ったときに何が起こるか。その恐ろしさを帝人事件は現代の私たちに伝えていると言えるだろう」(菅谷幸浩・亜細亜大学法学部教授)。

・「目には目を」の報復が当然とされた時代にあって、過失者を許せという規定が設けられた。イスラエルの法はやり直しを認める。悪意や計画を持たずに人を殺したものは救済され、借金等で奴隷に落ちた者も「ゴーエール」によって買い戻される。このゴーエールに期待をかけたのがヨブだ。ヨブが誰にも自分の無実を理解されない中で求めた者が、この未来の贖い主だった。このゴーエールがやがて「命の贖い主」として、新約のイエスに結実していく。私たちも、キリストという逃れの町が与えられている。罪を犯した者も悔い改めれば許される。

・横浜指路教会・藤掛順一牧師は2016.10.16に「逃れの町」という説教を行った。

「私たち一人一人の人生も、主が与えて下さっている嗣業の地である。私たちは、主に与えられた土地であるこの人生を生きているのだし、その人生において主が共に宿って下さっており、私たちのただ中に主がいて下さる。主によって与えられ、主と共に生きている土地を、私たちは汚してしまっていることがいかに多いことか。私たちは言葉と行いによっていつも、共に生きている人を傷つけ、人の血を流してしまう者だ。神のものであるこの土地を、主に与えられたこの人生を、日々汚しつつ生きているのが私たちだ。「土地に流された血は、それを流した者の血によらなければ、贖うことができない」と聖書は語る。私たちは本来、自分の犯している罪、人の血を流している罪の償いのために、自分の血を流さなければならない、死ななければならない者だ。その私たちがなお生きることを許されているとするならば、それは私たちが「逃れの町」に置かれているということではないか。この町の周囲では、血の復讐をする者、罪に対する正当な裁きを行なおうとする者が、私たちの血を求めており、私たちは本来その手に引き渡されて死ななければならない存在だ。しかしその私たちを逃れの町に置いてしっかりと守って下さっている方がおられる。それが主イエス・キリストだ。主イエスこそ、私たちのための逃れの町である。主イエスの下にこそ、罪人である私たちがなお生きることができる場がある」。

・日本バプテスト連盟・奈良キリスト教会の松原宏樹牧師は、最初に通常の幼稚園から除外される発達障害や自閉症の子供たちを受け入れるための幼稚園を設立した。教会員の中に保育士の方がいて、その助言を受けてのことだ。また死にゆく人を見守るためのホーム・ホスピスを造った。彼の母親が末期がんになり、受け入れてくれる施設がなかったからだ。現在はNPO法人みぎわを通しての障がいのある子どもたちの特別養子縁組の働きを強めている。教会員の助産師の訴えを具体化したものだ。いずれも教会に基礎を置いた活動から生まれた運動であり、これは現代の日本に逃れの町を造ろうとする試みではないか。市川八幡教会は「ホームレス支援」を教会の業として行っている。茂原バプテスト教会では、礼拝に手話通訳を置き、聾唖の方が集まるようになった。世の荒波の中で疲れた人が逃げ込む「逃れの町」(民数記35:6他)を私たちは造りたい。その幻を持ち続けたい。

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