江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年4月17日祈祷会(創世記36章、エサウとヤコブ、エドムとイスラエル、争いの歴史)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.エサウの系図

・エサウは弟ヤコブが帰国し、お互いの家畜を飼うには狭くなったので、死海の南セイルの地に移り住んだ。
-創世記36:6-8「エサウは、妻、息子、娘、家で働くすべての人々、家畜の群れ、すべての動物を連れ、カナンの土地で手に入れた全財産を携え、弟ヤコブのところから離れてほかの土地へ出て行った。彼らの所有物は一緒に住むにはあまりにも多く、滞在していた土地は彼らの家畜を養うには狭すぎたからである。エサウはこうして、セイルの山地に住むようになった。エサウとはエドムのことである」。
・その移住は先住民ホリ人を征服してのものであった。現在のヨルダンの地で、首都セラが後にペトラとなる。
-申命記2:12「セイルには、かつてフリ人が住んでいたが、エサウの子孫は彼らを追い払って滅ぼし、代わってそこに住んだ。これは、イスラエルが主から与えられた領地を手に入れたのと同様であった」。
・エサウの子孫の中で注目すべき人物は、「アマレク」(36:12)だ。彼らはエジプトを出て、約束の地を目指すイスラエルの民に襲い掛かった(出エジプト17章)。
-申命記25:17-18「あなたたちがエジプトを出た時、旅路でアマレクがしたことを思い起こしなさい。彼は道であなたと出会い、あなたが疲れきっている時、あなたのしんがりにいた落伍者をすべて攻め滅ぼし、神を畏れることがなかった」。
・その後もイスラエルとエドムは抗争を繰り返してきた。ダビデ時代にはエドムはイスラエルに支配され、長い間属国とされた。
-?列王記11:15「かつてダビデがエドムを征服した時、軍の司令官ヨアブが戦死者を葬るために上って行き、エドムの男子をことごとく打ち殺した」。
・エドム人はイスラエルを憎み、イスラエルがバビロンに滅ぼされた時(前589年)、彼らはユダヤに侵攻する。これはイスラエルにとっては赦しがたい記憶となった。
-エゼキエル35:3-5「彼に語りなさい。主なる神はこう言われる。セイル山よ、私はお前に立ち向かう。私はお前に向かって手を伸ばし、お前を荒れ果てた廃虚とする。私はお前の町々を荒れ地とする。お前が廃虚になったとき、お前は私が主であることを知るようになる。お前は果てしない敵意を抱き、イスラエルの子らが災いに遭い、最後の刑罰を受けたとき、彼らを剣に渡したからである」。
・イスラエルはその後、繰り返しエドムへの恨みを歌い続けた。
−詩編137:7「主よ、覚えていてください、エドムの子らを。エルサレムのあの日を、彼らがこう言ったのを『裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで』」。
・捕囚期の預言者オバデヤも侵略してきたエドムへの憎しみをその預言に歌う
-オバデヤ1:1-18「主なる神はエドムについてこう言われる・・・私はエドムから知者を、エサウの山から知恵を滅ぼす・・・兄弟ヤコブに不法を行ったので、お前は恥に覆われ、とこしえに滅ぼされる・・・主の日は、すべての国に近づいている。お前がしたように、お前にもされる」。

2.イスラエルとエドム、争いの歴史

・この両民族の争いの歴史が、創世記「ヤコブとエソウ」の争いの物語として書かれたと考える聖書学者は多い。弟が兄を支配するという物語の中に、イスラエルがエドムを支配するという民族の争いが象徴されている。また色の濃く(赤く)、毛深い者としてエサウが描かれているのは、イスラエルがエドム人に持っていた根深い侮蔑を現している。
−創世記25:21-26「妻リベカは身ごもった。ところが、胎内で子供たちが押し合うので、リベカは・・・主の御心を尋ねるために出かけた。主は彼女に言われた『二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる』。月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた」。
・捕囚帰還後もエドムに対する憎しみは消えなかった。第二神殿時代の預言者マラキもエドムへの憎しみを語る。
−マラキ1:2-3「エサウはヤコブの兄ではないかと主は言われる。しかし、私はヤコブ(イスラエル)を愛し、エサウ(エドム)を憎んだ。私は彼の山(セイル)を荒廃させ、彼の嗣業を荒れ野のジャッカルのものとした」。
・旧約聖書で「エドム」と称された地名がギリシヤ語に音訳すると「イドマヤ」となる。その地名は、ユダヤおよび死海の南方、主としてエサウの子孫であるエドム人が居住した山岳地帯を指す。新約時代にはローマのユリウス・カエサルの支持を取りつけたイドマヤ人ヘロデはユダヤ王に任じられて、ヘロデ大王と呼ばれるようになる(前37-4年在位)。ヘロデはイエスが生れた時、自分の地位が脅かされる不安に駆られてイエスを殺そうとしたとマタイは記す(この出来事は歴史的には確認されておらず、マタイの創作とされている)。マタイはヘロデがイドマヤ人、すなわちエドム人、エサウの子孫であり、ヤコブの子孫(イスラエル)を統治する権利がないことを知っていたため、正統なユダヤ人の王の誕生に不安を感じたことを暗示している。
―マタイ2:1-16「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、東からきた博士たちがエルサレムに着いた・・・ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々を遣わし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。」
・パウロもユダヤ人として、エドムへの憎しみを継承している。彼は、マラキ書を引用して、イスラエルの選びとエドムへの見捨てを「神の自由な選び」の例証として挙げる。
−ローマ9:10-13「リベカが・・・私たちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。『私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです」。
・へブル書もこの偏見を継承し、「ヤコブを信仰の人、エサウを不信仰の人」として描く。
―ヘブル12:14-17「全ての人と相和し、また、自ら清くなるように努めなさい。清くならなければ、だれも主を見ることはできない。気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。・・・彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。」

3.私たちはこれをどう読むか

・イスラエルとエドムの争いの歴史は、日本と朝鮮の争いの歴史に似ている。丸木夫妻の描く原爆図「からす」では、長崎の被爆地において日本人遺体が処理された後、徴用されて犠牲になった朝鮮人被爆者遺体は放置され、からすがそれをついばむ絵が記されている。人は屍さえも差別する。同じ構図は原爆慰霊碑にもみられる。
-2015年7月18日東亜日報社説「日本の広島平和記念公園にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑は、日本が建てた原爆死没者慰霊碑とわずか205歩しか離れていない・・・1945年8月6日、米軍のB29爆撃機が広島上空で原爆を投下し、20万人の死者が出た。そのうち2万人は韓国人だ。歴代の日本の首相は毎年、原爆死没者慰霊碑で行われる追悼式に出席し、すぐそばの韓国人慰霊碑には目もくれなかった。韓国人慰霊碑は公園の外に建てられ、29年が経った99年に現在の場所に移された・・・広島は依然として『2つの顔』だ。韓国の駐日広島総領事が平和記念館長に韓国館の造成を要請したが、『外国人犠牲者の待遇に悩んでいる』という返事だけ帰ってきた。日本は慰霊碑に『(戦争を起こした)過ちを繰り返さない』という約束を刻んでいるが、日本人は韓国人慰霊碑を訪れない」。
・イスラエルから見ればエドムは許しがたい敵であろうが、エドムから見ればイスラエルもまた敵だ。敵に恨みを持つ限り、敵対関係は消えない。旧約は敵への報復を断念することは出来なかった。報復の悪循環を終わらせるためには一方的な和解行為しかない。それこそイエスが目指されたことだ。
-マタイ5:38-39「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。
・マルテイン・ルーサー・キングは、1963年に「汝の敵を愛せ」という説教を行った。当時、キングはアトランタ・エベニーザ教会の牧師だったが、黒人差別撤廃運動の指導者として投獄され、教会に爆弾が投げ込まれ、子供たちがリンチにあったりしていた。そのような中で行われた説教である。
-キング・敵を愛せ「イエスは汝の敵を愛せよと言われたが、どのようにして私たちは敵を愛することが出来るようになるのか。イエスは敵を好きになれとは言われなかった。我々の子供たちを脅かし、我々の家に爆弾を投げてくるような人をどうして好きになることが出来よう。しかし、好きになれなくても私たちは敵を愛そう。何故ならば、敵を憎んでもそこには何の前進も生まれない。憎しみは憎しみを生むだけだ。また、憎しみは相手を傷つけると同時に憎む自分をも傷つけてしまう悪だ。自分たちのためにも憎しみを捨てよう。愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力なのだ」。

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