すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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2017年7月23日説教から

2017-7-23
「また、悪人に向かって、私が、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない」(エゼキエル33:14-15)

禁断の木の実を食べた人に対し、神は呼びかけられます「食べるなと命じた木から食べたのか」。その問いに男は答えます。「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」。「悪いのはあの女です」、男は自分の罪の責任を女になすりつけようとし、さらには「あなたがあの女を与えた」と責任を神に拡げています。これが、自由を獲得して、自分が主人になって生きようとした人間の姿です。
自分のしたことの責任を自分で負うことをせず、ひたすら他の人のせいにしていく。ここに罪の本質があります。もし人がここで自分の責任を認めたら、神は間違いなく人間を赦された。それを示すのが招詞の言葉です。
「神の戒めを破った、禁断の木の実を食べた、そのことに罪の本質があるのではなく」、「罪を認めようとせず、自己弁解し、他者に責任を押し付けようとした」、そこに罪の本質があると物語は語っています。

神を信じる人は罪を犯した時、「あなたはどこにいるのか」と神に問われ、裁かれ、苦しみ、その苦しみを通して神の憐れみが与えられ、また立ち上がることができます。神を信じることの出来ない人々は犯した罪を隠そうとするために、罪が罪として明らかにされず、裁きが為されません。裁きがないから赦しがなく、赦しがないから平安がない。罪からの救いの第一歩は、罪人に下される神の裁きなのです。「私は罪を犯しました」と悔改めた時、神の祝福が始まります。

説教

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