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2010年9月5日説教

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詩編100:1-5、礼拝の喜び


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2010年9月5日説教から

2010-9-5
イエスはこれを聞いて言われた『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が求めるのは憐れみであって、いけにえではないとはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである』」(マタイ9:12-13)

詩編100篇5節は「主の慈しみはとこしえに」と歌います。この「慈しみ」と訳されている言葉が旧約聖書に繰り返し出てくる「ヘセド」という言葉です。ヘセドは単なる「慈しみ」というよりも、「友愛」というべき意味を持っています。ある辞書は「共に生きようとする課題と責任を負う連帯愛」と解説します。

このヘセドが新約聖書では「憐れみ」と訳されています。イエスは「私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と言われた、その「憐れみ」がヘセドです。イエスは病の癒しをされましたが、多くの場合、当時の社会において罪人、穢れた者とされていた人々を癒されました。らい病を患う人に対し、イエスは「深く憐れみ」、「手を差し伸べてその人に触れ」、「清くなれ」と宣言し、癒されます。一人息子の死を悲しむ母親を「憐れに思い」、当時の禁忌に逆らって「棺に手を触れ」、彼を生き返らせます。「癒し」の行為は、禁止されていた安息日にも行われました。イエスは自らが痛む=社会的制裁を受けることにより、病む者たちの痛みを共有されました。ここにヘセド=友愛の実行があります。

ルカ10章の「良きサマリア人」もまた、このヘセドの実行者です。私たちに与えられた課題は、私たちはどうすれば「ヘセド」を生きる者になることができるのかです。隣人と共に生きる、その具体化が求められています。
説教
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