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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

聖書教育の学び

2023年1月1日聖書教育の学び(2012年1月1日説教、ルカ2:41-52、神の家族)

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1.イエス12歳時の聖家族

 

・新しい年を迎え、今年は元旦に主日礼拝を持つことが出来ました。与えられた聖書箇所はルカ2章41節からです。クリスマスの次の主日は、伝統的に「聖家族」の祝日です。聖家族とはイエスを中心にしたマリア、ヨセフの家族のことで、今日の聖書箇所はこの家族の日常生活の一こまを伝えたものです。この物語はルカ福音書だけが取り上げています。マルコとヨハネには、イエスの若いころの記事はなく、洗礼者ヨハネとイエスが出会う場面から物語が始まります。二人は、神の子の物語は洗礼者との出会いから始まると考えたからです。マタイはイエスの生誕物語を記しますが、その後の記事はなく、30年後にイエスが洗礼者ヨハネに出会う場面に飛びます。ルカだけが、イエスの幼年時代、少年時代の記事を記します。それが本日読みます12歳の時のイエスです。
・ルカは記します「両親は過ぎ越し祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った」(2:41-42)。ユダヤの成人男子は、三大祭りの時には、エルサレム神殿に参拝することが命じられていました。春の過越祭、初夏の五旬祭、秋の仮庵祭です。しかしエルサレムから遠く離れて住んでいる人もありますので、一般には年に1回の過越祭に来ればよいとされていました。マリアとヨセフもそういう慣習に従っていたのです。また当時のユダヤ教社会では、男の子は12歳になると一人前と認められ、成人のお祝いをする習慣がありました。今日の堅信礼がこれに相当するかも知れません。多くの教会では子どもが生まれると幼児洗礼を施し、12-14歳になると堅信礼を受けて正式な教会のメンバーになります。堅信礼を英語ではComfirmationといいます。Comfirm、信仰を確認して大人の仲間入りを祝うという意味です。その12歳のイエスを連れて両親はエルサレム神殿に参拝します。
・巡礼の旅は、通常、家族だけではなく、親戚や知人、みんなで一緒に行いました。集団行動ですから、ヨセフとマリアはイエスがいなくなっても気付きませんでした。最初は「一体どこにいるのだろう」位に思っていたかも知れません。しかし夕方になって、家族ごとに集まる段になって、本当にいないということがわかります。両親はあわてて、エルサレムに戻ってイエスを捜しますが、結局見つからず、三日後にやっと神殿の境内でイエスを発見します。この三日間の両親の気持ちは大変だったでしょう。この時のマリアの言葉、「なぜこんなことをしてくれたのです」(2:48)という叱責の言葉から、ほっとしたという思いが伝わってくるようです。その時イエスは、「神殿の境内で、学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられ」ました。また「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いて」いました(2:46-47)。
・イエスは律法の教師たちの話を聞いたり、質問したりしていました。イエスは、エルサレムで新しいことを吸収し、ナザレでは学べないことを学んでおられたのでしょう。両親は、我が子が神殿の境内にいたことにほっとしたのでしょう。マリアは安堵のあまりイエスを叱ります「お父さんも私も心配して捜していたのです」(2:48)。イエスは答えます「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいることは当たり前だということを知らなかったのですか」(2:49)。マリアの言葉は、日本語では「お父さんも私も」となっていますが、原語では「あなたのお父さんも私も」となっています。「あなたのお父さんも」という言葉に対して、イエスは「自分の父の家にいる」と言われたのです。自分の父、神こそが本当の父であるとイエスは言われました。「しかし両親にはイエスの言葉の意味がわからなかった」(2:50)とルカは記します。ただわからないながらも、「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(2:51)。なんとかイエスを理解しようとしていたマリアの気持ちをルカは描いています。

 

2.聖家族も完全ではない

 

・クリスマスから正月にかけて、家族と共に集まって時を過ごすという人は多いでしょう。逆に家族と共にいられない寂しさを感じる人もいるかもしれません。クリスマスやお正月は人が自分の家族を意識する時だといえます。特に昨年は東日本大震災があり、多くの人が「家族の絆」を思う年でした。しかし現実は多くの家庭で家族の絆が弱まっています。「無縁社会」という言葉があります。人間は地縁、血縁なしには生きていけませんが、その血縁の絆が弱まり、1人で亡くなっていく方が多い時代です。全国市町村の調査によれば、身元不明の自殺や行き倒れ、餓死や凍死等の無縁死が年間32,000人に上ることが明らかになりました(NHK無縁社会から)。ごく当たり前の生活をしていた人が社会とのつながりを失い、一人孤独に生きて亡くなっていく。こういう時代の中で、改めて家族とは何かが問われています。イエスの少年時代のエピソードは、両親の庇護のもとで、イエスが「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(2:52)少年時代を過ごされたことを示しますが、一方で、少年イエスが両親の考えを超えた行動をし、両親にはそれが理解できないという話でもあります。

・今日の物語は、「自分の道を歩み始めた子どもは、もう親の思う通りにはならない。それが子どもの巣立ち、自立である」ことを親につきつけます。一人前になるとは親から自立することです。これまでは親の愛に守られ、育てられてきた子どもが、自分の意志で自分の道を歩み始めます。それは必ずしも親の期待した道ではなく、その時、親は子に見捨てられたと思うかもしれません。今日の記事は、聖家族といえどもお互いを理解することが出来なかった事実を私たちに示します。イエスが神殿に残っているのに気づかず帰ってしまう親たち、子も神殿に残ることを言わずに親に心配をかける。3日経ってやっと見つかった子は母に言います「神殿こそ私の父の家。そこにいるのは当然でしょう」。母マリアですら、今回ばかりは納得できません。「何を言っているのか、親が心配したことが分からないのか」。分かり合うことの難しい家族。これが愛の絆に結ばれた理想の家庭にもあったのです。しかし、この時にはイエスは両親と共にナザレに戻られ、通常の家庭生活に戻られます。まだ時が来ていなかったからです。しかしやがて真の意味で自立する、ナザレの家族を置いて自分の道を歩まれる時がきます。それが洗礼者ヨハネの呼びかけに応えて、ナザレを出られ、宣教者の道を歩まれる時でした。その時に、家族はそれを受け入れることが出来なくなります。

 

3.神の家族を形成する

 

・今日の招詞にマルコ3:33-35を選びました。次のような言葉です「イエスは『私の母、私の兄弟とはだれか』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた『見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ』」。イエスは病に苦しむ人を憐れまれ、いやされました。その業を通して、イエスの評判は高まり、人々が押し寄せてきました。そこにイエスの家族も来ました。身内の者たちは「イエスは気が変になっている」との評判を聞いて、イエスを取り押さえるために来たとマルコは書きます(3:21)。イエスの父ヨセフはイエスが10代の時に亡くなったようです。父亡き後、イエスは一家の生計を担うために大工の仕事に従事されていました。しかし、30代前半の時、バプテスマのヨハネの呼びかけに応えて、ナザレを出てユダに行かれ、そのまま家に帰らず巡回伝道者となられました。家族は、「長男が家を飛び出して帰ってこない。気が狂ってしまったに違いない」と考え、家に連れ帰るためにカペナウムに来たのでしょう。

・後に書かれたマタイ福音書やルカ福音書ではこの部分は削除されています。初代教会の指導者になって行ったのはイエスの兄弟たちでした。イエスの家族が生前のイエスを信じなかったばかりか、その宣教を妨害しようとしたことを書く事をマタイやルカははばかったのでしょう。しかし、事実はマルコの言う通りです。「預言者は郷里では受け入れられない」(マルコ6:4)、イエスは家族の無理解の中で宣教活動を続けられたのです。「神の御心を行う人こそ、私の家族なのだ」、イエスの言葉のなかには血の繋がった家族に理解されない悲しみがあります。

・教会に十字架があるように、家庭にもそれぞれに十字架があります。聖家族もそれを抱えていました。このまま宣教活動をすれば死ぬことになると分かりながら、それを果たして行く子。それを理解できない母。そのひとつ取ってみても、それがどんなに辛いことか分かります。しかし、「母はこれらのことをすべて心に納めていた」。このことにどんな神の計画があるのか、すぐに答えは出てこないでしょうし、分からないまま終わるかもしれません。しかし祈り続け、待ち続け、問い続ける。そしてそれぞれの家庭の中で、神のみ旨を一つずつ果たしていく。やがて神の御旨がわかる時が来ます。

・イエスは十字架で死なれますが、神はイエスを復活させられました。この復活を通して、イエスこそ神の子と信じる群が起こされ、彼らは教会を形成して行きます。人々は共に住み、家族として一緒に暮らしました。その家族の中に、かつてはイエスを信じることが出来なかったイエスの家族も招かれています。使徒行伝1:14には次のようにあります「彼ら(弟子たち)は都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった・・・彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」。マタイやルカは、イエスの母や兄弟たちがイエスを神の子と信じなかった過去を隠す必要はなかったのです。むしろ、マルコ3:21の記事と使徒行伝1:14の記事を共に読むことによって、十字架と復活の出来事が、かたくなだったイエスの兄弟たちの心を砕いていった奇跡を見ることができます。十字架と復活が新しい家族を形成する、聖家族が神の家族になる、それこそが神の国のしるしなのです。
・神の家族が集う場所、地上の教会は不完全な群です。しかし、神の国を先取りしている希望の共同体です。そこでは「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」という御言葉が通用する共同体であり、罪を犯した者も招かれ、私たちのこの世の願望が打ち砕かれる所です。世は悪で満ち満ちています。誰もが自分のことだけに囚われ、他者のことを考える余地がない世界で暮らしています。しかし、その世界に神の国は来たのです。神の国は教会として来ました。悪がなお力を振るっている世にあって、悪に従う事を拒否する群が形成されています。私たちの教会もその枝の一つです。ここにおいては、他者の為に祈ることの出来る群が形成されています。私たちこそ神の家族であり、イエスが戦われた戦いを継承していく群である、降誕節の今、その事を覚えたいと願います。

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