江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2026年5月24日 テモテへの手紙一 4章1~16節 「恵みの賜物(たまもの カリスマ)」

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招詞 イザヤ書44章3節
「わたしは乾いている地に水を注ぎ/乾いた土地に流れを与える。/あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ/あなたの末にわたしの祝福を与える。」

 

 

序 ペンテコステ礼拝

・みなさん、おはようございます。本日はペンテコステ礼拝です。ペンテコステは、日本語で「五旬祭」または「聖霊降臨日」と呼ばれ、イエス・キリストが復活されてから五十日目に、弟子たちに聖霊が注がれたことを記念する日です。弟子たちは聖霊によって勇気と力を与えられ、福音を語り始めました。この日を教会の始まりの日と呼ぶこともあります。
聖霊とは、神さまが今も私たちを導き、慰め、励まし、生かしてくださる働きです。
どうか今日の礼拝を通して、その神さまの恵みと導きを共に受け取るひとときとなりますように。

 

起 恵みの賜物を軽んじない
・今朝は、テモテへの手紙一4章1節から16節より、

「恵みの賜物」という題で御言葉に聴いていきます。ペンテコステ、すなわち五旬祭の日、弟子たちは一つになって集まり、主の約束を待ち望んでいました。すると使徒言行録2章が告げるように、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」(使徒2:2)

「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」(使徒2:3)とあります。

聖霊の到来は、ただ目を引く不思議として与えられたのではありません。そこにいた一人一人の上に、主が御自分の霊を注がれたという出来事でした。恐れのゆえに閉じていた者たちが、主の霊によって開かれ、福音を語る群れへと造り変えられたのです。彼らが恐れていたのは、ただ漠然とした不安ではありません。

イエスを十字架につけた人々の手が、自分たちにも及ぶのではないかという切実な恐れでした。さらに、自分たちが主を見捨てて逃げてしまったことへの恥や後ろめたさもまた、彼らの心を閉ざしていたのでしょう。

そのことを思うとき、パウロが若い伝道者テモテに語った言葉は、ペンテコステの光の中でいっそう鮮やかに響きます。「終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。しかし、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。

神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。」(4:1~5)「これらのことを兄弟たちに教えるならば、あなたは、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。」(4:6)ここでパウロは、奉仕の土台を能力や性格や経験ではなく、「信仰の言葉と、あなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われること」に置いています。つまり、まず自分自身が御言葉に養われること、そこから奉仕の歩みが始まるのです。ペンテコステも同じです。

聖霊は、ただ人を興奮させたり、一時的な熱気をもたらしたりするために注がれたのではありません。主イエスが語られたことを思い起こさせ、十字架と復活の福音を証しさせ、教会を真理に立たせるために注がれたのです。ですから、聖霊に満たされることと御言葉から離れることは、決して結びつきません。むしろ真実の聖霊の働きは、私たちをいよいよキリストの御言葉へと立ち返らせるのです。さらにパウロは、「俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。」(4:7)と勧めます。「体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。」(4:8)と言うのです。
ここで「この世の命」とは、私たちがこの地上で日々を生きる現在の生活のことです。
悩みや務めの中にあっても、神と共に歩む平安と支えが与えられているということです。
また「来るべき世での命」とは、主が完成してくださる永遠の救いの命を指します。
私たちはしばしば、目に見える力、分かりやすい成果、すぐに役立つ技術ばかりを求めます。
しかし神が教会にお与えになる賜物は、まず私たちを内側から整え、神の前に生きる者へと造り変えていく賜物です。祈る力、待ち望む力、御言葉を聴き分ける力、愛をもって仕える力、弱い者の声に耳を傾ける力、語るべき時に語り、黙すべき時に黙する知恵―これらはいずれも聖霊が与えてくださる大切な恵みの賜物です。ペンテコステの出来事を見ると、弟子たちはまず聖霊に満たされ、次に「神の偉大な業」を語り始めました。つまり、賜物は自分を飾るために与えられるものではなく、神をあがめ、隣人を生かし、教会を建て上げるために与えられるものです。

 

 

承 若さを越えて働く主の霊

・パウロは続けて、「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。」(4:12a)

と語ります。テモテは若かったのでしょう。教会の中には、経験豊かな年長者もいたことでしょう。その中で、若い伝道者として御言葉を語り、群れを導くことには不安も葛藤もあったに違いありません。しかしパウロは、若さそのものを問題にしません。「むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。」(4:12b)と勧めます。この勧めは、ヨエル書3章1節の約束を思い起こさせます。 「その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。」神の霊は、ある限られた立場の人にだけ注がれるのではありません。息子にも娘にも、年を重ねた者にも若者にも、また身分に関係なく注がれるのです。ここに、ペンテコステの福音の広がりがあります。主は、年齢や地位や肩書を超えて、御自分の霊を与え、御自分の民を用いてくださるのです。ですから、若いからだめなのでもなく、歳を重ねたからもう用いられないのでもありません。神の霊が注がれるなら、だれもが主の働きに参与するよう招かれているのです。ペンテコステの日にも、それは明らかでした。

ガリラヤの弟子たちが、多くの国の言葉で神の大きな業を語り始めたとき、人々は驚きました。

「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」と群衆は言います。

これは単なる驚くべき現象ではありません。神の福音が、ある一つの民、一つの文化、一つの階層の中に閉じ込められず、すべての人へ向かって開かれていることのしるしでした。

バベルのように言葉が分断の象徴となった世界において、聖霊は言葉を通して福音の橋を架けられたのです。弟子たちは、訓練された弁論家でも、権威ある宗教家でもありませんでした。しかし聖霊が注がれたとき、彼らはキリストの証人とされました。

ここに教会の希望があります。主は、充分に整った人だけをお用いになるのではなく、主に信頼して従う者を、聖霊によって整えながら用いてくださるのです。そしてパウロは、「わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。」(4:13)と命じます。

教会は御言葉によって生かされます。聖霊に満たされることと、御言葉から離れることは決して同じではありません。むしろ真実の聖霊の働きは、私たちを御言葉へと引き戻し、そこから教会の交わりと奉仕を生み出していきます。
実際、使徒言行録2章42節以下には、聖霊に満たされた最初の教会の姿がこう記されています。

「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」ここに、ペンテコステの実りが示されています。聖霊は人々をばらばらにするのではなく、教えのもとに集め、祈りへと導き、パンを裂く交わりへと結び合わせるのです。さらに彼らは必要に応じて分け合い、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美していました。つまり、聖霊の賜物は礼拝の中にとどまらず、生活の場にまで流れ出ていくのです。ですから、ペンテコステの喜びは一時の熱狂ではなく、御言葉に聴き、祈り、互いに仕え合い、痛みを分かち合う教会生活の中で、静かに、しかし確かに実を結んでいくのです。

 

転 乾いた地に注がれる霊
・ここで、礼拝のはじめに読まれた旧約の招詞、イザヤ書44章3節を心に留めて、皆さんとご一緒にお読みしたいと思います。「わたしは乾いている地に水を注ぎ/乾いた土地に流れを与える。/あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ/あなたの末にわたしの祝福を与える。」ありがとうございます。

この御言葉は、捕囚と荒廃の中にあった民に語られた約束です。乾いた土地とは、ただ自然の風景を語っているだけではありません。希望を失った人の心、祈りを忘れた群れ、神の言葉に飢え渇いた民の姿そのものの事です。そこに主は、「わたしは水を注ぐ」と言われます。

人が自分で湧き出せる水ではなく、神から与えられる命の水です。そしてこの約束は、ヨエル書3章1節において、さらに大きな広がりをもって告げられます。「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る。」神の霊は、特別な宗教的エリートだけに与えられるのではなく、すべての人に注がれる。

そこに新しい時代の幕開けが告げられているのです。「わたしは乾いている地に水を注ぎ/乾いた土地に流れを与える。/あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ/あなたの末にわたしの祝福を与える。」

この約束は、ペンテコステの日に鮮やかに実現しました。人々が弟子たちを見て、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」(使徒2:13)とあざけったとき、ペトロは立ち上がって言いました。

「そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。」(使徒2:16)そして彼は、ヨエル書の言葉を引用します。「神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。」(使2:17)ここで大切なのは、ペンテコステの出来事が、単なる宗教的高揚ではなく、神の約束の成就として理解されていることです。

つまり、聖霊降臨とは、旧約から続く神の救いの歴史が、主イエス・キリストにおいて決定的な時を迎えたというしるしなのです。そしてペトロの説教は、聖霊の不思議そのものに人々の目を留めさせたのではなく、十字架につけられ、しかし神によって復活させられたイエス・キリストへと、人々の目を向けさせました。

聖霊はいつでもキリストを指し示し、キリストの救いへと人を導きます。しかし、この約束は昔の出来事として閉じられてはいません。ペトロは続けて言いました。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(使徒2:39)

ここに教会の大きな慰めがあります。ペンテコステとは、「昔こんなことがあった」と記念する日であるだけではなく、「主よ、今ここにあなたの霊を注いでください」と願い求める日でもあるのです。私たちの信仰が形式だけになってしまうとき、奉仕が義務に変わってしまうとき、祈りが言葉だけになってしまうとき、私たちの内側は乾いていきます。教会の活動があっても、心が乾いていることがあります。礼拝に集っていても、御言葉に対する驚きと感謝を失ってしまうことがあります。その乾きは、努力だけでは癒やされません。

乾いた地に必要なのは、水が上から注がれることです。同じように、私たちに必要なのは、神の霊が新たに注がれることなのです。このとき、テモテへの手紙の言葉が一層深く響きます。

パウロは「あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。」(4:14)と語りました。賜物とは、特別な能力を誇るための道具ではありません。乾いた土地に注がれた水が命を育てるように、聖霊が私たちの内に与えてくださる神の恵みそのものです。ある人には語る賜物、ある人には祈る賜物、ある人には慰める賜物、ある人には忍耐して支える賜物、ある人には見えないところで仕える賜物、ある人には迷う者を待ち続ける賜物が与えられています。どれも目立つとは限りません。しかし教会は、その一つ一つの賜物によって建てられていきます。使徒言行録2章の最後で、聖霊に満たされた群れが、使徒の教えにとどまり、交わりを大切にし、パンを裂き、祈ることに熱心であったと語られているのは、まさに賜物が教会の共同体を生かしていたからです。聖霊が注がれるとき、私たちは自分にないものを嘆くのではなく、すでに与えられている恵みの賜物に目を開かれます。

そしてその賜物を通して、キリストの体である教会は、一つに結ばれ、世に対する証しの群れとされていくのです。ですから、今日問われているのは、「私は何ができるか」だけではありません。むしろ「主はすでに私に何を与えてくださっているのか」「その賜物を、私は祈りつつ用いているのか」ということです。乾いた土地に水が注がれるとき、土地はただ濡れるだけではなく、芽を出し、実を結びます。同じように、聖霊が注がれるとき、教会には感謝が生まれ、交わりが深まり、証しの言葉が起こされます。若者が幻を見るとは、神がなお新しい道を備えておられることを信じることです。歳を重ねた者が夢を見るとは、長い人生の中でもなお、神の約束は終わっていないと信じることです。息子や娘が預言するとは、神の言葉が新しい世代に委ねられていくことです。奴隷となっている男女にも霊が注がれるとは、この世の身分や力関係を超えて、神の恵みが注がれるということです。ペンテコステは、まさにそのような境界線を越える神の御業なのです。恵みの賜物は、教会を生かし、世に遣わし、傷ついた人を慰め、迷う人に福音を届けるために与えられているのです。

 

結 自分自身にも、教えることにも気を配る

・最後にパウロは、テモテにこう命じます。「自分自身にも、教えることにも気を配りなさい。このことを続けなさい。そうすれば、自分自身とあなたの言うことを聞く人たちとを、救うことになるのです。」

これは厳しい言葉のようでいて、実は深い慰めに満ちています。なぜなら、教会の働きは、私たちの熱心さだけで成り立つのではなく、主が御言葉と御霊によって人を生かしてくださるからです。
ペトロもまた、ペンテコステの日に「2:38悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒2:38)と語りました。
しかしこれは、悔い改めや洗礼という人間の行いによって罪の赦しを勝ち取れ、という意味ではありません。
罪の赦しの根拠は、ただイエス・キリストの十字架と復活、すなわち主の贖いにあります。
だからこそ悔い改めとは、その赦しの恵みへと心を向け直すことです。洗礼は、そのキリストに結ばれ、キリストのものとして生きることのしるしです。そして聖霊は、そのようにキリストの救いにあずかる者に、神が賜物として与えてくださるのです。ここで聖霊は、努力して獲得する報酬ではなく、神が与えてくださる賜物として示されています。だからこそ私たちは、自分を誇る必要も、失望する必要もありません。ただ、与えられた賜物を軽んじず、御言葉に養われ、祈りつつ忠実に歩むのです。主が与えてくださる恵みの賜物に生かされながら、自分自身にも、教えることにも、教会の歩みにも、丁寧に気を配って歩み続けるのです。ペンテコステの恵みは、特別な一部の人だけのものではありません。主は教会全体に聖霊を注いでくださいます。歳を重ねた者にも、若い者にも、長く信仰の道を歩んできた者にも、今なお弱さを覚える者にも、主は御霊を与え、恵みの賜物をお与えになります。そしてその賜物を通して、互いに支え合い、慰め合い、福音を証しする群れとして教会を形づくってくださるのです。使徒言行録2章の教会がそうであったように、教会のしるしは、派手さや強さだけではありません。御言葉に聞き、祈り、パンを裂き、持っているものを分かち合い、喜びと真心をもって共に生きることの中に、聖霊の実りが現れます。もし今、私たちが自分の小ささを思っているとしても、主はその小さな器に御霊を注ぎ、豊かに用いてくださいます。
もし今、私たちが乾きを覚えているとしても、主はなお乾いた土地に水を注ぐと約束しておられます。
ですから私たちは、他者と比べることをやめ、主が今日ここで私たちに注いでくださる霊に心を開きたいのです。
愛する兄弟姉妹の皆さん。乾いた土地に水を注がれる主は、今日も生きて働いておられます。
私たちの渇きをご存じであり、私たちの弱さをご存じであり、それでもなお、恵みの賜物をもって教会を建て上げてくださいます。イザヤとヨエルが預言し、ペトロが告げ、パウロが教えたその恵みは、今もなお教会のただ中に注がれています。どうかこのペンテコステに、私たち一人一人が、またこの教会全体が、聖霊によって新たにされますように。
そして与えられている賜物を軽んじることなく、御言葉と祈りに養われ、主の福音を喜びをもって証しする者とされますように。若者には幻を、歳を重ねた者には夢を、疲れた者には新しい慰めを、語るべき者には大胆さを、仕える者には忍耐を、祈る者には深い信頼を、主が豊かに与えてくださいますように。私たちの教会が、使徒の教えに立ち、相互の交わりに生き、パンを裂き、祈りに熱心な群れとして、世の中でキリストの体として歩むことができますように。

 

 

祈り
恵み深い真の命の神さま。あなたは乾いた土地に水を注ぎ、あなたの民に御霊を注いでくださるお方です。

どうか今、私たちのかたくなな心を開き、あなたの御言葉によって養い、聖霊によって新しくしてください。

私たちに与えられている恵みの賜物を軽んじることなく、教会を建て上げ、隣人に仕え、

主イエス・キリストを証しする者としてください。

この祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名によっておささげします。

アーメン。

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