江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年1月21日説教(ヨハネ4:1-26、命の水を運ぶ)

投稿日:2024年1月20日 更新日:

 

1.イエスとサマリアの女の出会い

 

・ヨハネ福音書を読み続けています。今日はヨハネ4章「命の水」の物語です。イエス一行はユダヤからガリラヤに行かれる途上でサマリアを通られました。一行がサマリアの町シケムに着かれた時、郊外の井戸に一人の女が水を汲みに来ました。イエスはその女に「水を飲ませてほしい」と言われ、女は驚きます。「ユダヤ人はサマリア人とは交際しない」(4:9)のに(サマリア人は汚れた民族として軽蔑されていた)、そのユダヤ人イエスがサマリア人の女に声をかけられました。「もしあなたが、私がだれであるか知っていたならば、あなたの方から頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(4:10)。女は更にびっくりして言います「あなたは生きた水を与えることが出来るというのですか」。それに対してイエスは言われます「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4:13-14)。女は直ちに反応します「その命の水を私に下さい」(4:15)。「生きた水」とは泉や川の流れの中にある水を指しますが、「命の水」とは何を指すのでしょうか。

・女は正午に、町外れの井戸まで水を汲みに来ています。水汲みは、普通は涼しい朝か夕方にします。しかし女はあえて暑い昼時に水汲みに来ています。他の女たちと顔をあわせることが出来ない、あるいは合わせたくない事情があったからです。女は過去に5度の結婚に失敗し、今は内縁の夫と同棲しています。離縁の原因は、彼女の不身持のためかもしれません。イエスは女と話すうちに彼女の最大の問題は、「水の渇き」ではなく、「魂の渇き」であることに気づかれます。女は男から男へ頼るべきものを求めていきましたが、どこにも本当の満たしを見出すことが出来ず、今は「不身持の女」との評判が立てられ、周りの人々から排除され、人目を避けて暮らしています。女が新しくやり直すためには、まず現実を見つめることが必要でした。だから女の最も触れてほしくない部分に、彼女の生き方にイエスは触れられます。それが「あなたの夫を此処に呼んで来なさい」という言葉でした(4:16)。彼女は過去に五回も離婚を繰り返し、いま同棲している男も夫とは呼び得ぬ存在でした。「あなたの夫を此処に呼んで来なさい」という言葉は彼女にとって苦痛の言葉でした。

・女はその「苦痛」の言葉を通して、自分の罪を悟らされ、「全てを知っておられる神がここにいます」ことに気づかされます。女が新しくやり直すためには、まず現実を見つめることが必要でした。だからイエスは女が最も触れてほしくない部分に、あえて触れられた。しかし、イエスの言葉の中には、女に対する非難や侮蔑はありません。いつも差別されていた女はそのことを敏感に感じました。イエスの言葉を通して、女は自分の罪を知り、全てを知っておられる神がいますことに気づかされた。何とか、この罪から清められたいと女は願いました。彼女は礼拝からも排除されていました。エルサレムでの礼拝は彼女がサマリア人ゆえに締め出されており、ゲリジム山での礼拝は彼女の不身持のゆえに同胞のサマリア人から拒否されていました。彼女には魂の渇きを癒すための礼拝の場所がありませんでした。イエスは女に言われます「あなたがたがこの山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(4:22)。「私があなたに礼拝の場所を与えよう。あなたが、どこでも、霊とまことを持って礼拝すれば、神は答えてくださる。神は決してあなたを疎外されない」。女はイエスの言葉によって回心します。彼女は「命の水」、「生けるキリスト」に出会ったのです。

 

2.渇く魂

 

・人は挫折や苦しみを通して、「自分の魂が飢え渇いている」ことを知らされた時、「命の水、生けるキリスト」を求めるようになります。サマリアの女はイエスとの対話を通じて回心しますが、何故、こんなに突然に回心したのでしょうか。それは女の置かれていた状況を考えればわかります。女はサマリア人であり、ユダヤ人はサマリア人を軽蔑し、道で遭っても口を利かないのが一般です。それなのに、ユダヤ人のラビであるイエスは女に声をかけてくれました。当時の女性は一人前とみなされず、教師であるラビが女に声をかけることはなかった。しかしイエスはその女に声をかけられ、「父なる神はあなたを愛しておられる」と説かれました。彼女は不身持の女として周りからつまはじきにされていましたが、イエスは罪を告発するのではなく、そのような生き方では幸せにはなれないことを女に示されました。これまで誰も彼女のことを真剣に受け止めてくれなかったのに、今ここに彼女のために語る方が現れた。しかも、この方は「自分はメシアである」と言明されている(4:26)。女は根底から変えられていきます。

・やがて町に出かけていた弟子たちが食べ物を買って帰ってきます。女はそれを契機に井戸を離れますが、水がめを置いたまま町に急ぎます。水を汲みに来たのに、そのことを忘れてしまったほどに、イエスの言葉は彼女を捕らえました。彼女は町に戻ると、人々に告げます「さあ、見に来てください。私が行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」(4:29)。彼女は罪の女として町の人たちからのけ者にされていました。その彼女が自分の最も触れられたくない自分の罪(私が行ったことをすべて)を人々に示して言います「この人は私が犯した罪を全て知っていました。この人はメシアです」。町の人々は女の日常を知っていました。彼女は隣人を避け、隣人も彼女を避けていました。その女が今は人々の目を避けないで見つめて言います「私はメシアに出会いました」。

・この女性はイエスに出会う前には、隣人との付き合いをなるべく避けていた。自分の過去と現在に自信が持てなかったからです。しかしイエスに出会って変えられた。パウロもキリストに出会って、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(第二コリント11:8)ことを知り、挫折から立ち上がることができた。自分の弱さを知る者は強い、もう失うものがないからです。弱さを知ることによって彼女は今まで疎遠だった町の人々に証しをすることができた。ここに偉大な再生の物語があります。

・今回の能登半島地震で輪島地方の多くの工場や建物が破壊されました。輪島塗の二代目だった田谷昂大さんは、工場と事務所は全壊、ギャラリーも輪島朝市の大火で焼け落ちました。「もう無理かな」、鉄製の足場だけになったギャラリーの焼け跡を見て、涙が止まらなかった。しかし彼はそこから立ちがります。前を向くきっかけは、顧客や取引先、友人らからの励ましの言葉でした。「また輪島塗をつくってください」、地震の翌朝、避難所で見たスマートフォンには千件を超えるメッセージが届いていた。返信しているうちに、自然と復活への思いが芽生えた。「輪島塗をもう一度届けないといけない」、田谷さんは、輪島塗の可能性と未来を信じて疑わない。彼は言います「輪島塗だけでなく、どんな伝統工芸にもやがて終わりは来るだろう。でも、今じゃない」。(産経新聞、2024.1.20)。

 

3.命の水を共に

 

・今日の招詞にヨハネ4:42を選びました。次のような言葉です。「私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。私たちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」。サマリアの人々は女の証しを聞いてイエスのもとに来て、イエスの話を聞きに来ました。ユダヤ人と敵対していたはずのサマリア人が、ユダヤ人であるイエスの言葉を聞き、救い主として認めました。その契機になったのは、罪人とされていた女の証しでした。自分の身持ちの悪さゆえに、隣人と顔を合わせるのを避けていた女が、今は人々の目を見つめて言います「私はメシアに出会いました」。村人は根底から変えられた女を見て、そこに何事かが起きたことを知ろうとしました。そして今度は自分で見て信じ、叫びます「この人こそメシアだ」と。

・ここに二つの和解が成立しました。町の人と女の和解、そしてユダヤ人とサマリア人の和解です。何故和解が成立したのでしょうか。ユダヤ人は通常、汚れた地に立ち入らないためサマリア地域を迂回して旅をしました(マタイ10:5)。しかし、イエスはあえてサマリアを通られます。ユダヤ人はサマリア人と出会っても挨拶しないのに、イエスはサマリアの女に声をかけられました。イエスは全力を傾けてただ一人の女に話されました。人が神からの招きを受入れた時に、憎しみを超えた世界が開けます。何故なら、神にとってはユダヤ人もサマリア人も共に愛しい子たちなのです。

・4章のテーマは「命の水」です。水は貴重であり、人は水なしには生きていけません。水が不足すると、身体はそれを警告するために、喉の渇きをもたらします。水の有無は人の生死を決定しますので、人は体の渇きには敏感です。しかし、魂の渇きに関しては、人は鈍感です。魂が渇いているにもかかわらず、それに気付かず、魂の死を招きます。日本では毎年3万人の人が自殺します。原因はいろいろでしょうが、究極的には、「魂の渇きによる死」と言いうるかもしれません。魂にこそ「生ける生命の水」が必要なのです。イエスはそのような私たちに、「渇いている人は私のところに来なさい。私が生命の水である聖霊をあなたたちに与える。聖霊はあなたに満ち、もうあなたは一人で生きるのではなく、私と共に生きるようになる」と招かれています。

・ヨハネが私たちに教えるのは、イエスを信じることにより、生ける水がその人から湧き出し、それは自分の渇きを癒やすのみでなく、その生命の水は周囲の人をも潤していくということです。サマリアの女はイエスとの出会いを通じて、キリストの証人となり、同胞をキリストの下に導きました。私たちもキリストに出会い、生命の水をいただきました。今度は私たちが他の人々に生命の水を運ぶ番です。詩編は歌います「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。神に、命の神に、私の魂は渇く」(詩編42:2-3)。私たちの周りの多くの人々が心を病み、魂の救いを求めてあえいでいます。社会の中で疎外され、「お前なんかいなくてもよい」、「お前なんか生きる価値がない」と宣言されて、打ちひしがれている多くの人がいます。そういう方に命の水を運ぶことこそ、私たちイエスに従う者の役割です。

・マザー・テレサがキリストに出会ったのは36歳の時でした。彼女は18歳でロレット修道会に入り、インドのコルコタ(カルカッタ)に派遣され、修道会運営の女学校で教師として働き始めます。1946年9月、36歳の時、黙想会に参加するため汽車でダージリンに向かう時、彼女はイエスの「私は渇く」(ヨハネ19:28)という十字架上の声を聴き、修道会を退会し、スラムに入って働き始めます。彼女は、「神は貧しい人の中におり、人間と共にこの世の苦難を担い、貧しい人の姿で現れ、人間の愛を待ち望み、渇いている」ことに気づき、その「神の渇きを癒すために私は召された」と信じ、活動を始めます。彼女はキリストに出会い、生命の水をいただき、今度は自分が他の人々に生命の水を運ぼうと決意しました。

・マザー・テレサは来日した時に語りました「日本は物質的には豊かだが、心が貧しい。この世で最も貧しいことは、飢えて食べられないことではなく、社会から捨てられ、自分なんかこの世に生まれてくる必要がない人間であると思うことです。その孤独感こそが、最大の貧困なのです。日本にもたくさんの貧しい人たちがいます。それは、自分なんか必要とされていないと思っている人たちのことです。」(『マザー・テレサの真実』(PHP文庫)より)。心の貧困は、物質の貧困よりも深刻です。その人々のためにイエスは死なれたとマザー・テレサは語り続けます。「あたかも人間となったことだけでは不十分であるかのように、神の偉大な愛を示すためにイエスは十字架上で死にました。イエスはあなたのため、私のため、ハンセン病の患者のため、空腹で死にかけている人のため、裸で道に横たわっている人のために、十字架上で死にました。イエスが私たち一人一人を愛されたように、私たちも互いを愛し合うことが求められています」。

・ミシェル・クオストというカトリック司祭は語ります「イエス・キリストはこの地上に降りられるために私たち一人一人を必要とされている。何故なら、キリストはこの地上にはもはや口と手を持っておらず、地上に降り立たれるためには、人間の口、人間の手を必要としておられるからだ」。神は私たちに、平和を作り出すための口となり、手となることを求めておられます。私たちは、人々が「飢えていたら食べさせ、のどが渇いていたら飲ませ、旅をしていたら宿を貸し、裸であれば着せ、病気であれば見舞い、牢にいたら訪ねよ」(マタイ25:35-36)というイエスの御声に招かれています。生命の水を与えられた者は次の人に与えるために水を運ぶ、そのような志を持った者が集う場が教会だと思います。

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