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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年1月14日説教(ヨハネ2:1-12、カナの婚姻、清めの水がぶどう酒へ)

投稿日:2024年1月13日 更新日:

 

1.水がぶどう酒に変えられた

 

・新年第二礼拝の今日、私たちはヨハネ2章「カナの婚礼」の記事を読みます。ガリラヤに戻られたイエスが郷里での結婚式に出られた時の出来事です。村で婚礼の祝いがあり、イエスの母マリアは手伝いに行っていました。そこにはイエスの兄弟たちもいました(2:12)。恐らくは親戚の家での婚礼であったのでしょう。だから、母マリアは宴席の料理や飲み物について気を配っています。当時の人々の生活は貧しく、普段はパンと水の質素な食事でした。だから、婚礼の宴は村中の楽しみの時であり、人々は飲みかつ食べるために集まってきました。その時、宴席に欠かせないぶどう酒が足らなくなりました。予想以上の人々が集まったのでしょう。これは宴を主催する家族にとっては、一大事でした。マリアも責任の一端を持つ者として困惑し、同じ席にいた長男のイエスに相談します「ぶどう酒がなくなりました。どうしたらよいだろう」と。

・それに対してイエスは答えられます「婦人よ、私とどんな関りがあるのです。私の時はまだ来ていません」(2:4)。非常に冷たい返事です。マリアは母と子の自然的人情によってイエスの気持ちを動かそうとしますが、イエスはこれを拒否されます。ヨハネ福音書では「私の時」とは「栄光の時」であり、十字架の時を指します。「まだ十字架の時ではないので奇跡を起こすことはできません」とイエスは言われました。しかしマリアはイエスが何かをしてくれることを信じて、召使いたちに言います「この人が何か言いつけたら、その通りにして下さい」(2:5)。熱心な懇願は神の子の心をも動かします。

・その家には大きな6つの水がめがありました。それぞれに2ないし3メトレステも入る水がめです。1メトレステは39リッター、3メトレステは100リッターです。100リッターも入る大きな水がめが、6つも置いてあったのです。イエスは召使たちに「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われ、水が満たされたのを見ると「さあ、それを汲んで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われました。召使たちが水がめから水を汲んで世話役の所に運んだところ、それは最上のぶどう酒に変わっていました。世話役は花婿を呼んで言います「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」(2:10)。水がぶどう酒に変わる「カナの奇跡」が起こったのです。

・物語の中心は「水がぶどう酒」に変えられたことではありません。それなら、ただの魔術にすぎません。物語の中心は、その水が「飲むための水」ではなく、「清めの水」であったことです。「清め」はユダヤ人にとって大事なことでした。マルコには「ユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない」(マルコ7:3-4)とあります。ここに律法に縛られた当時のユダヤ人の生活を、私たちは見ます。

 

2.もう清めの水はいらない

 

・人々は身を清く守るために、汚れから遠ざかろうとしました。そのために、毎日の生活の中で大量の清めの水を必要とし、大きな水がめがいくつもなければ、安心して暮らしていけない状況でした。日本人も新年にはお宮参りに行き、清めの水を飲みます。汚れは外から来ると思うからです。イエスは外からの汚れを心配するユダヤ人たちに言われました「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚す」(マタイ15:10-11)。汚れは水でいくら洗っても、清くはならない。汚れを気にして、家に何百リッターの清めの水がめを置いても問題は解決しない。何故ならば、「汚れは私たちの外にではなく、私たちの心の中にある」からです。

・その汚れを、聖書は「罪」と呼びます。私たちの中に罪があり、その罪が人を傷つけ、自分も傷つけられています。その罪は自我、自分のことしか考えない人間の業です。この自我という地獄から解放されない限り、平安はありません。その私たちの罪からの解放のために、イエスは十字架で死なれたと聖書は語ります。ぶどう酒はイエスが十字架で流された血を象徴しています。ルカ福音書のイエスは語られます「(ぶどう酒の入った)この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ22:20)。イエスが清めの水をぶどう酒に変えて下さり、そのことによって、人々が内心の罪(汚れ)から解放される道が生まれたとヨハネは語っているのです。

・カナの婚礼の記事はヨハネ特有で、他の福音書にはありません。またヨハネ福音書はイエスの活動の初期に、「カナの婚礼」(2:1-12)と「イエスの宮清め」(2:13-22)の記事を持ってきます。他の福音書では「宮清め」はイエス活動の最後に記されます。宮清めが神殿冒涜罪にあたるとしてイエスの処刑に繋がったからです。しかしヨハネではイエスの公生活の始めに宮清めを配置します。ぶどう酒の記事についてヨハネはまとめます「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(2:11)。カナでイエスは水をぶどう酒に変えられますが、この水は「清めに用いる」水でした。祭儀のための水が、イエスによって十字架の血に変えられ、もう祭儀の水は不要になったとヨハネは示唆します。弟子たちはこの時にはそれがわからなかった。しかし「イエスの十字架と復活を経験して、その意味が分かった、だから信じた」(2:11)とヨハネは記します。

 

3.受難の象徴としてのカナの奇跡

 

・今日の招詞にヨハネ2:19を選びました。「イエスは答えて言われた『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる』」。カナの婚礼に続いて、ヨハネはイエスの「宮清め」を書きます。イエスは神殿から犠牲の動物を売り買いする動物商や両替商を追い出され、怒った祭司たちはイエスに迫ります「あなたが

こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか」(2:18)。それに対して、イエスが答えられたのが招詞の言葉「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」です。口語訳では「私は三日の内にそれを起こすだろう」と訳します。

・「起こす」の原語「エゲイロウ」は、「起きる、目を覚ます」という意味で、ヨハネ福音書では、この言葉は「復活」を意味します。イエスがここで言われていることは、「あなたがたは私を殺すだろう。しかし父なる神は私を三日のうちに起こして下さる」という意味です。「あなた方は罪の贖いのために動物犠牲が必要だとして祭儀制度を造り、神殿維持のためにお金が必要だとして神殿税を集めている。しかし私が人々のための贖いとして死ぬのだから、もう犠牲は不要であり、神殿も不要だ」として、イエスは神殿崩壊を預言されます。そして弟子たちは「イエスが死者の中から復活された時、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(2:22)。

・ヨハネ福音書が書かれたのは紀元90年頃ですが、当時の教会はユダヤ教からの迫害に苦しんでいました。その教会にヨハネは、「祭儀と律法を中心とするユダヤ教は役割を終えた。イエスの受難と復活を通してイエスが生きた神殿となられた」ことを伝えるために、福音書の初めに、カナの婚礼と宮清めの記事を持ってきたのです。カナの奇跡、宮清めの出来事の双方がやがて来る十字架を指し示す「しるし」として、用いられています。イエスが自ら血を流されることを通して、人を縛る律法や祭儀から私たちを解放して下さった、これが福音=良い知らせなのだとヨハネは強調しています。

・このことが私たちに教えますことは、もう道徳に縛られた窮屈な生き方、「これをしてはいけない」、「あれをしてはいけない」という生き方からの解放です。イエスが私たちに教えてくださったのは、喜びと祝福の中に生きることです。だから清めの水をぶどう酒に変え、それを楽しめと言われます。日本の教会には、禁酒禁煙という伝統がありますが、それは聖書の教えではありません。聖書が私たちに語るのは、あふれるばかりのぶどう酒は「神の祝福のしるし」であるということです(詩編104:15)。禁欲と言う犠牲を捧げることを止めて、喜びをもって礼拝するようにヨハネ福音書は教えます。

 

4.共におられるイエスを伝えていく

 

・最近発表された国際宗教調査(フランスの世論調査会社の調べ、2023年)によれば、世界の76%の人は「宗教は困難を乗り切る力を与える」と信じますが、日本では37%にすぎません。日本人は神に対する信仰が極端に低い。このような人々に私たちはどのようにして福音を伝えていくのでしょうか。宗教哲学者・近藤剛氏は論文集「神の探求」の中で、神を喪失した現代人の不安を描きます。「私たちはどこから来たのか、私たちはどこへ行くのか、私たちが生きていることに一体何の意味があるのか、死ねばどうなるのか、かつて、このような人間存在の問いに、神が答えを与えてくれた。しかし、今ではそのような神はどこにもいない。今日、神を語ることは迷信であり、愚行であると言い放つ者が増えてきた」。

・彼は続けます「神の掟から解放された人間の自我は肥大し、人は自らを追い求めるエゴイストとなり、やがては人間自身が神になろうとする。神が死んだ、ないし神が虚構であるとすれば、人間の価値判断の基準も虚構になる。そこにおいては、何が善であり、何が悪であるのか、それを基礎づける絶対的な根拠が失われた。「人を殺すのが何故悪いのか」という問いにさえ、答えを無くしてしまう」。

・虚無主義に立つニーチェは語ります「人が生まれてきたことに何ら目的はなく、生きていることに何ら意味はなく、私たちの存在には何らの価値も与えられず、私たちの生存には必然性はない」。これが現実の在り方であるとすれば、私たちにとっては非常に過酷な世界です。私たちは、この事実に耐えることができるか。あるいは、この事実を前にして、健全な生を全うすることができるのか。

・神を失った現代日本は自己肯定ができにくい社会であり、人々は「社会から見捨てられ、この社会に自分の生きる場がない」との不安の中に置かれ、その中で、うつ病になり、不登校や引きこもり者になり、生活困窮による育児放棄や幼児虐待が生じています。そのような人々にどのように福音を伝えていくのか。人々は人間としての尊厳を求めて、救いを求めて、あえいでいます。彼らに必要なものは「自己肯定」だと思います。その自己肯定が生きる勇気を育みます。ティリヒは語ります。「生きる勇気とは自己肯定ができる勇気であり、その条件が整っていないにも関わらず、受け入れられていることを受け入れること」だと彼は説明します。人はどのような困難の中にあっても、「愛されている」、「必要とされている」ことを知った時、「生きる勇気」を与えられます。その人々のために、イエスは十字架で死なれました。そのイエスの死を継承していく私たちには「神が共におられる」ことを伝えていく責務があります。

・パウロは「あなたがたは、キリストの手紙だ」と語ります。教会に集められた私たち一人一人は、キリストの手紙です。世の人々は聖書を読んでキリスト者になるのではなく、「教会に集うキリスト者を読んで」、福音が何かを知ります。「この人は何故、困難の中でも希望を失わないのだろうか」、「この人は何故損をしてまで人のことを心配するのだろうか」、そしてその人を動かしているのが「キリストに生かされている喜び」であることを知った時、人々はキリストを求めて聖書を読み始めます。私たちの生き方こそ伝道の器なのです。

・ヘンドリック・クレーマーは語ります「教会は世にあって、世に仕える。その世で働くものこそ、信徒であり、教会が世に仕えるためには、信徒が不可欠である。日本の伝道は牧師がする直接伝道より、信徒の生活による間接伝道が必要だ。イエスは『あなた方の光を人々の前に輝かせ』と言われた(マタイ5:16)。『自分を愛するように隣人を愛しなさい』と言われた。御言葉を日々実行しなさい。それが伝道である。日本の教会は建物と牧師だけの教会である。信徒は死んでいる。その結果、教会は日本社会の中から浮き上がっている」。そのような過去を反省して、私たちは、「生まれてきてよかった、この教会でイエスと出会えてよかった」という人を一人でもよいから見出していく1年の私たちの目標にしたいと願います。

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