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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

聖書教育の学び

2020年9月20日聖書教育の学び(2016年12月22・29日祈祷会、出エジプト記20:1-17、十戒の付与)

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1.十戒の歴史と背景

 

・モーセと民は主の山シナイに立つ。そのシナイ山で十戒が与えられたと出エジプト記は記す。

-出エジプト記24:12-18「主が、『私のもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。私は、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける』とモーセに言われると、モーセは従者ヨシュアと共に立ち上がった・・・モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜、山にいた。』」

・十戒は二つの聖書的背景を持つ。出エジプト20章と申命記5章である。最大の違いは第4戒である。出エジプトは創造論の視点より、申命記は救済論の視点よりの記述である。

―出エジプト20:8-11「安息日を心に留め、これを聖別せよ・・・六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」

―申命記5:12-15「安息日を守ってこれを聖別せよ・・・あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」

・十戒には十の戒めがあるが、そのうち八つは禁止形である。ここでの重要な関心事が共同体を創造することではなく、共同体は破壊するおそれのある行為から共同体を守ることにある故だと言われる。

-出エジプト記20:13-17「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない」。

 

2.序文― 「20:2私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」

 

・十戒はイスラエルに対する神の直接的な呼びかけである。この序文により、十戒が福音、即ち救済史の中の戒めであることが明らかになる。神は「私」として、「あなた」である人間に出会う。人格と人格の出会いであること、この出会いにより私を無から造られたかたであることを明示する。同時にあなたの神として自らを低めたもう神、神はその意志を遂行させるものとしてイスラエルを選ばれ、契約のしるしとして、十戒を与えられた。

・肉の支配に苦しむイスラエルを解放するために歴史に介入された神がここにある。神はイスラエルを世界の国民の祝福の基とするために選ばれた。

―創世記12:2「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」

・この神は特定の歴史の中でご自身を啓示される。

-出エジプト記19:3-6「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。『ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た、私がエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、私のもとに連れて来たことを。今、もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、私の宝となる。世界はすべて私のものである。あなたたちは、私にとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。』」

 

3.第一戒―「20:3 あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。」

 

・原文では「あなたは私の前に他の神々があってはならない」である。十戒の神は唯一神ではなく、拝一神であり、基本は「妬む神」である。神(エロヒーム)は複数形であり、その中から、主(ヤーウェ)のみを拝する。多くのイスラエル人が他の神々を礼拝してきた歴史的事実を背景にした戒めである。多神教の世界においては絶対倫理は生まれない。申命記6:5はこの戒めの肯定形である。

-申命記6:5「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

・倫理とは神との関係、人との関係を律するものである。神への信仰は必ず隣人への倫理へと展開し、具体的実践の中で生き抜かれる。神への服従が倫理の根本であり、従って第一戒は他の規程にはなりえない。逆に倫理は常に信仰に基礎を持ち、信仰から出発する。絶対者を持たぬ現代社会の倫理は相対化せざるを得ない。

―マタイ22:37-40「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 

4.第二戒―「20:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。」

 

・偶像の禁止は、周辺文化と共通する宗教的慣習からイスラエルを分離させる。イスラエルは神像を持たない。神はアロンが造った金の子牛を禁止された。エジプトの神は牡牛に乗り移ってそれを住まいとする。聖書は人間が造る諸物(神殿、神像)において、神に出会う信仰を否定する。

―列王記上8:27「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。私が建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」

・神は言葉と行為において、人間と出会われる。異教の神は人間の構築した場所(神殿や聖所)に現れる。それは人間あっての神である。神は人間の手段を一切不要とされる自由な主体である。人間に依存して自己を啓示されるのではなく、人間が啓示に導かれる。「世は被造物を神として拝むが、被造物を被造物とせよ」と言うのが、この第二戒である。

-出エジプト記34:14-15「あなたはほかの神を拝んではならない。主はその名を熱情といい、熱情の神である。その土地の住民と契約を結ばないようにしなさい。彼らがその神々を求めて姦淫を行い、その神々に生贄を捧げる時、あなたを招き、あなたはその生贄を食べるようになる。あなたが彼らの娘を自分の息子にめとると、彼女たちがその神々と姦淫を行い、あなたの息子たちを誘ってその神々と姦淫を行わせるようになる。あなたは鋳像の神々を造ってはならない。」

 

5.第三戒―「20:7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」

 

・神は天地を造り、これに名を与えられた。神はイスラエルを選び、無きに等しいものに名を与え、存在を許し、受け入れられた。イエスは自分の羊の名を呼ぶ。私たちは名を持つ者として、神に受け入れられている。神の名は神の側から示された。イスラエル人は神の名をみだりに唱えることを畏れて、YAWHの四文字を主(アドナイ)と呼んだ。神の名は「あってあるもの」、これは「在ろうとして在る者」の意である。

-出エジプト記3:14-15「神はモーセに、『私は在る。私は在るという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。私は在るという方が私をあなたたちに遣わされたのだと。』神は、更に続けてモーセに命じられた。『イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が私をあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえに私の名、これこそ、世々に私の呼び名。』」

・古代においては「名を知るものは、その力をつかむ」と考えられた。神の名を知るならば神を動かし得る、そこから、神名を唱えて神の力を用い人間意志を実現しようとする呪術が生まれる。呪術を否定し、歴史を導く神への信仰が「神の名をみだりに唱える」ことを禁止させる。人間が名づける神ではなく、人間の名を呼ぶ神への服従と信頼が第三戒の精神である。

-詩編69:31「神の御名を賛美して私は歌い、御名を告白して、神をあがめます。」

 

6.第四戒―「20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。」

 

・安息日とは他の日から区別する日(安息日=ヘブル語シャーバット、シャバース=中止する、カーダシュ=区別する)。日常労働からの休息と解放の日。それは本人だけでなく、家族や使用人や異国人にも同じように命じられている。それは神の創造の業を覚える日、神の救いの業を覚える日である。

-出エジプト記20:8-11「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにある全てのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」

・祭司典記者はバビロン捕囚の中で、神の創造を覚えた。罪を犯して捕囚となったイスラエルをも「良し」と言われた神を覚える。私たちは「良し」とされた存在、能力ではなく存在により「良し」とされたことを喜ぶ日である。エジプトから救い出された主の「強い手と伸ばした腕」を想起し、感謝して喜ぶ。この喜びは同時に隣人をも解放するものとなる。救いは必ず倫理的責任を伴う。イスラエルが救われたのはイスラエルに使命を果たさせるため、私が救われたのは隣人を救うためである。

・祝福の具体化である安息日を人々は戒律の日にしてしまった。イエスはこれを批判しあるべき姿を示された(マルコ2:27「安息日は人のために定められた」)。神の祝福に相応しい形を求める。キリスト教会は安息日を主の日として祝う。789年にシャルルマニューが日曜の全ての労働を第四戒違反として禁止した時、日曜日の世俗化が始まった。

-カール・バルト「ねばならない日としてでなく、自由な日としてこの日を過ごすべきではないか。かくて、我々はこの日に教会に行くのではないか。」

 

7.第五戒―「20:12 あなたの父母を敬え。」

 

・イスラエルでは家族は血族共同体であると共に、宗教共同体であった。両親は子供に対して神の権威を代表し、家庭における宗教教育は両親の責任であった。両親に服従することは神への服従につながる。

―申命記5:16「あなたの父母を敬え。あなたの神、主が命じられた通りに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。」

・元来は成人した子に対し、年老いた両親への配慮を主が命じられたもの。明らかに老親の扶養をしない子供たちがいたのであろう。現代のように年老いた父母の世話を老人ホームに託す時、行政もこの義務を負っている。

―箴言23:22「父に聞き従え、生みの親である父に。母が年老いても侮ってはならない。」

・この戒めは同時に父母の子供に対する義務をも含む。現代の幼児虐待はこの戒めへの背反である。

-エフェソ6:2-4「『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。『そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる』という約束です。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」

 

8.第六戒―「20:13 殺してはならない。」

 

・「殺す」とは故意に人を殺すことであり、イスラエルにおいては、過失による殺人は処罰の対象ではなかった(逃れの町の規程により命が保証された)。

―出エジプト記21:12-14「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。ただし、故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合は、私はあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる。しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは彼を私の祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる。」

・後代になると、復讐は神ご自身がされることが強調され、復讐制度は克服されている。

―申命記32:35「私が報復し、報いをする。彼らの足がよろめく時まで。彼らの災いの日は近い。」

―ローマ12:19-21「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい『復讐は私のすること、私が報復すると主は言われる』と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。』悪に負けることなく善をもって悪に勝ちなさい。」

・「目には目を、歯には歯を」という倫理は、同害報復を限度に制裁を認める。第六戒は「殺さない」ことよりも、「生かす」ことにアクセントがある。人間は神の形に造られた故に、これを殺してはいけない。

―創世記9:6「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」

・イエスが第六戒を「怒るな、和解せよ」と根本にまで遡って解釈される時、第六戒は愛の戒めとなる。「殺すな、生かし合え」と言う倫理は、今日では公害や中絶、自然破壊等の問題にぶつかる。

―マタイ5:21-22「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」

 

9.第七戒―「20:14 姦淫してはならない。」

 

・聖書は、人は神の形に、男と女に創造されたとする。人間は交わりを本質的な在り方として生きる。聖書において結婚は積極的に肯定される。この結婚の秩序を乱すものとして、姦淫がある。預言者は結婚を神とイスラエルとの契約の比喩とした。姦淫は神との契約に対する背反であり、その契約の乱れが姦淫として具体化した。そのイスラエルを神は憐れみによって許し、自ら契約を更新し給う。

・イエスが言われたのは外面のみを守る道徳の欺瞞であり、悔改めであった。倫理は信仰に根拠を持たない限り、徹底できない。

―マタイ5:27-28「あなたがたも聞いている通り、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」

・「女の将来を考えぬ恋愛は単なるセックスだ」(武者小路実篤)。人格として異性と結び合う結婚の意義を教会は伝える必要がある。ゆがんだ性の在り方は人間の命さえ奪う。今日ではレイプやポルノも他の人格に対する明白な暴力として、この規定に含めるべきであろう。

 

10.第八戒―「20:15 盗んではならない。」

 

・神は人間が労働を通して必要な糧を得るように定められた。盗みは労働の定めを無視し、神が与えたものをないがしろにする行為である。王制以降、強者と弱者、富者と貧者の格差、対立の中で、盗み・貪りが社会的の問題になってきた。エリヤはナボテのぶどう園を横領したアハズ王を激しく責め、預言者は王権を上回る神の主権を主張する。

-列王記上21:17-19a「主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ。『直ちに下って行き、サマリアに住むイスラエルの王アハブに会え。彼はナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って来て、そこにいる。彼に告げよ・・・あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしようとするのか。』」

・アモス・イザヤ・エレミア等の預言者は盗みを社会階級の搾取と関連づけて糾弾している。社会倫理における盗み、神の所有の私物化としての不正な所有の追及は正義の問題でもある。

―詩編24:1「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。」

・全ては神のものであることを認識する時、植民地支配や経済的侵略の罪が明らかになる。南北問題も北の貪り・南の貧困という盗みである。隣人の所有権のために、己の所有の罪を告発しなければならない。

―ヤコブ5:1-4「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい・・・御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。」

 

11.第九戒―「20:16 隣人に関して偽証してはならない。」

 

・法廷において真実証明は二人以上の証人を必要とした。公の場における隣人としての、公人としての義務と責任を追及している。それは単なる偽証の禁止ではなく、困窮の中にある隣人のために真実を証言することが求められている。

―出エジプト記23:6-9「あなたは訴訟において乏しい人の判決を曲げてはならない。偽りの発言を避けねばならない。罪なき人、正しい人を殺してはならない。私は悪人を、正しいとすることはない。あなたは賄賂を取ってはならない。賄賂は・・・正しい人の言い分をゆがめるからである。あなたは寄留者を虐げてはならない・・・あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである。」

・神の真実を求めるものにとって、事柄は私のことである。周囲にある欺瞞的なこと、隣人の不当な苦しみに対し、私が証言し、偽証してはならない。

-マタイ5:33-37「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、私は言っておく。一切誓いを立ててはならない・・・あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

 

12.第十戒―「20:17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

 

・貪りとはみだりに欲しがること、それは特定の行為と言うよりも、動機でもある意志を問題にする。それは内面の罪である。生きるに必要なものへの感謝を忘れ、養いたもう神に感謝しない罪である。

―ルカ12:15「そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。』」

・自分の生を神から受け取ろうとせず、自分で確保しようとする不信仰から、「思い煩い」と「貪り」が生まれる。

―マタイ6:30-32「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」

・「貪るな」の禁止命令が、「愛せよ」に変わる時、積極的な行為になる。

-申命記15:7-8「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。」

-聖書教育の学び

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