1.キリストの体である教会で何故争いが起こるのか
・コリント書を読んでいます。今日が三回目になります。教会は「エクレシア」と呼ばれます。エクレシアとは「呼び集められる」と言う意味です。キリストの名によって呼ばれた者が集められ、神の言葉を聞き、それぞれの場で福音を伝えるために遣わされる場所です。ところが現実の教会ではそこに対立や紛争が生じます。争いの多くは、人間的な結びつきによるもので、この世の争いと変わりません。何故キリストの体である教会において、この世と同じような人間的な争いが起こるのか。このような争いを私たちはどのように解決したらよいのか、それを私たちに教えるのが、コリント教会の経験です。今日、私たちはコリント第一の手紙3章1-13節を読みますが、3章4節には次のような言葉があります「ある人が『私はパウロにつく』と言い、他の人が『私はアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか」とパウロは書きます。
・コリント教会はパウロの開拓伝道により生まれました。巡回伝道者パウロはコリントに1年半滞在して教会の基礎を築き、その後を同僚のアポロに託して、エペソに移ります。アポロは雄弁家で、聖書に精通し、その説教は人々を魅了したようです。アポロに惹きつけられた人々はアポロ指導下に新しい方向に導かれることを望むようになっていきました。他方、創設者パウロからじかに教えを受け、導かれた人々は、そのような動きを、教会を誤った方向に導くものだと強く反対していました。アポロは雄弁で、外見も立派だったと伝えられています。他方、パウロは朴訥でその説教はわかりにくかったようです(�コリント10:10)。教会の人々は外見や説教で二人を比べ、「私はアポロに」、「私はパウロ」にと争っていました。コリント教会にはその他にもペテロ派と呼ばれるユダヤ人たちもおり、彼らは律法よりも恵みを強調するパウロに違和感を持っていました。そのような教会内部の争いがエペソにいるパウロにも聞こえてくるほどに大きくなり始めていたのです。
・このコリント3章を読む時、いつもため息が出ます。人はバプテスマを受けても、受ける前と同じことばかりしているのだろうかというため息です。教会の混乱はコリントだけの問題ではありません。今日の教会でも、長い間牧会をされた牧師が引退されて新しい牧師が招かれた時、新任牧師は自分なりのやり方で教会を導こうとします。その時、前任牧師を慕って来た人々は新しい牧師のやりかたに不満を持ち、「昔は良かった」とつぶやき始めます。他方、新しい牧師からバプテスマを受けた人々は前牧師派を「旧守派」として排撃し始めます。こうして教会内に争いが始まります。私が神学校で学んだ時、牧会学の先生はこのように言っていました「あなたたちが教会に赴任した時、最初の5年は苦労する。赴任した教会の信徒たちは前の牧師によって導かれた人々であり、あなたたちに違和感を持つだろう。あなたたちがバプテスマを授けた、あるいは導いた人々が教会の半数を超えた時、その時、教会はあなたたちの教会になる」。
・15年間の牧師生活を通して、この人間的な言葉は真実をついていると思います。しかし、それではいけないのだとパウロは言います。教会も人間の集まりであり、意見の対立や争いはやむをえないという考えに対して、教会は違うとパウロは言います。彼はコリント教会に書き送ります。「(あなたがたは)相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」(3:3)。「キリストのバプテスマを受けたあなたがたはもはや肉の人ではなく、霊の人なのだ。あなたがたがバプテスマを受けた時、あなたがたの市民権はこの世から天に移され、あなたがたは天の市民権を持ちながらこの世を生きる者にしていただいた。それなのに、何故いつまで世の人と同じ歩みをしているのですか、それではキリストは何のために十字架につかれたのですか」とパウロはコリント教会の人々に迫ります。
2.肉の人から霊の人へ
・キリストを救い主と受け入れるためには、霊の働きが必要です。コリント教会の人々はこの霊を受けてキリスト者となりました。しかし、霊を受けても乳飲み子のままにとどまっている人が多いとパウロは指摘します。「兄弟たち、私はあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまりキリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。私はあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません」(3:1-2)。教会に導かれたが、まだ自覚的な信仰を持たない人々です。彼らは、教会はキリストの体であり、アポロもパウロもキリストに仕える僕に過ぎないことを理解していません。だから「私はパウロに」、「私はアポロに」という愚かな争いをするのです。
・パウロが求めるのは「信仰に成熟した人」(2:6)です。固い食物を食べることの出来る人、「パウロが植え、アプロが水を注いだかもしれないが、成長させて下さるのは神である」ことを理解できる人です。彼は言います「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(3:5-6)。教会を立て上げるのは、パウロでもアポロでもなく、神なのである、それをわかって欲しいとパウロは訴えています。人間的な好き嫌いの感情の下に、「私はアポロに」、「私はパウロに」、という争いをするために教会に集められたのではないのだと。信仰の未熟者から成熟者になれとパウロは言います。
3.成熟した信仰者になれ
・パウロは10節から教会を建物に例えて説明をしています。彼は言います「私は、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています」(3:10)。パウロがコリント教会の土台を築き、アポロがその上に建物を建てました。パウロは続けます「ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(3:10b-11)。パウロが土台を築きましたが、その土台になっているのはあくまでもキリストです。パウロもアポロも「神のために働く同労者」に過ぎず、土台はキリストなのであるとパウロは強調します。
・パウロは続けます「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです」(3:12-13)。耐久性のある資材(金、銀、宝石)で上物を造ったのか、それとも当座の必要を満たす物(木、草、わら)で造ったのかは、50年後、100年後に明らかになるでしょう。目先だけを考えた材料は50年後、100年後には朽ち果てるからです。「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受ける」(3:14-15)のです。
・私たちの教会は、会堂建設にあたって、基礎工事に相当のお金と時間をかけ、上物に耐久性のある資材を選びましたので、予算は当初の6,500万円から8,500万円に増加しました。小さな教会にとっては大幅な増額で、増額部分を教会債という形でお願いしましたので、結果的に自己資金(献金)は3,000万円、教会債4,000万円、連盟借入金2,000万円という形の資金調達になりました。資金の7割近くが借入金ですが、この借入金の66%を占める教会債は教会員の方々からの借入であり、その基礎はキリストに対する信仰です。連盟貸付も諸教会からの献金が原資になっており、これもまた信仰が土台になっています。会堂建設の基礎もまたキリストなのです。
・パウロが言いますように、教会は建物ではありません。そこに集う一人一人の信仰者の共同体こそが教会です。しかし同時に教会は会堂を必要とします。私たちの会堂の内部はすべて木造で、一切塗装していませんので腐食に強く、外壁はガルバリウム鋼板で耐久性や耐火性に優れています。設計の畑聡一先生のお話では、50年後に会堂はさらに美しい色合いとなり、100年後も基本構造の修理は不要とのことです。私たちはこれからの子どもたちや孫たちに素晴らしい会堂を残すことが出来たのです。しかし、会堂を維持するためには知恵が必要です。私たちは本日午後から建築委員会を開催し、借入金の返済問題についての話し合いを持ちます。一人一人の教会員が、この会堂の真の土台石はキリストであり、キリストが共にいてくださる限り、この会堂は神の宮で在り続けると信じる時、借入金の返済負担も共に担うことが可能になります。私たちの信仰の証しが、この会堂であるという信念を持ち続けた時、この会堂は立ち、そして立ち続けるのです。
・今日の招詞に1コリント3:22-23の言葉を選びました。次のような言葉です。「パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」。パウロは党派争いをするコリント教会へ書いた手紙の3章を素晴らしい讃歌で締めくくります。私たちは何のために生きているのか、今生きているのは自分の力で生きているのか、それとも生かされているのか、生かされているとしたら神は私たちに何を期待しておられるのか。それをパウロは「パウロもアポロもあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの」と簡潔に言い表します。このような願いを持って生きる時、もう「私はパウロに、私はアポロに」という争いは消え、教会は神の宮となります。
・内村鑑三の墓は多磨霊園にありますが、その墓碑には次のような言葉が刻まれています「I for Japan.japan for the world.The world is for Christ. And all for God.」。「私は日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、そして全ては神のため」、内村もパウロの言葉を借りて自分の気持ちを述べたのでしょう。私たちがキリストにある大志を持って教会形成に取り組んでいった時、教会は世に福音を伝える拠点になりうるのです。