江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年9月7日説教(1コリント4:1-16、弱さの中に強さが)

投稿日:2014年9月7日 更新日:

1.パウロを裁くコリントの人々

・コリント書を読み続けています。パウロは、「私はパウロに」、「私はアポロに」と分派に分かれて争いあうコリント教会の人々に手紙を書きました。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」(3:5)。「パウロは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神」(3:6)であるのに、何故パウロやアポロが神より偉くなるのか、そこには信仰の根本的な誤りがあるとパウロは語ります。教会も人の集まりですから、必ず意見の違いや対立が生じます。世の人々は意見を同じくする仲間が集まって党派や分派を造りますが、教会は違います。神によって集められた共同体である教会は、違いや対立を争う場ではなく、違いを喜ぶ場です。そのような、違いを喜ぶ教会を形成するにはどうすればよいのか、今日はコリント4章を通して、学んでいきます。
・コリント教会はパウロによって設立されましたが、パウロがコリントを離れてエペソ伝道に移っていったその間に、コリント教会の人々の心はパウロから離反し、「パウロはイエスの直弟子でないから使徒ではない」、「パウロは霊の賜物を受けていない」等、パウロを批判するようになりました。その人々にパウロは手紙の中で言います「人は私たちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです」(4:1)。キリストに仕える者=ヒューペレテース、ヒュポ=下に、エレテース=漕手の、ガレー船の一番下で櫓をこぐ奴隷を示しています。伝道者は奴隷船の漕ぎ手のようにキリストに仕える者だとパウロは言います。また、管理者=オイコノスは、家の管理を任されている奴隷のことです。私たちはキリストから福音宣教を任されている奴隷だ、奴隷だから主人のために働く。だからあなた方から、どんな批判を受けても問題ではなく、問題は「キリストのために働いているか」、その一点にかかっていると彼は言います。伝道者は神に立てられ、神から業を委託されています。もし伝道者がその委託の応えない時は、神が裁かれます。伝道者を裁く方は神であるのに、「あなたがたは先走って裁いている」(4:5)。「私はパウロに」、「私はアポロに」、とあなたがたが言っていることは、伝道者であるパウロやアポロを、あなたがた自身が神であるかのように裁いているのだとパウロは語ります。
・パウロはコリントの人々への批判を続けます「あなたをほかの者たちよりも優れた者としたのは、だれです。あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、私たちを抜きにして、勝手に王様になっています」(4:7-8)。あなた方は仕えるのではなく、仕えられることを求めている。王様であるかのように高ぶっている、それで良いのかとパウロは語ります。さらに、あなた方は私たち伝道者を、刑場に引かれていく死刑囚のように嘲笑していると彼は言います「神は私たち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。私たちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです」(4:9)。ローマの競技場では、さまざまな見世物の最後に死刑囚が引き出され、死ぬまで猛獣や他の剣士と戦わせさられます。「伝道者は、命をかけてキリストの福音を伝えている。その私たちを裁き、嘲るあなたがたは何者なのだ」とパウロは反論します。ここには闘争的なパウロの一面が強く出ています。読んでいて慰められる箇所ではありません。しかし、このような戒めもまた、必要な使信なのです。

2.その人々に対し「私に倣え」と説くパウロ

・14節から語調が変わります。パウロは言います「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいて、私があなたがたをもうけたのです」(4:14-15)。あなた方を生んだのは私なのだと。そしてパウロはここで有名な言葉を語ります「私に倣う者になりなさい」(4:15)。これはパウロの生活態度や信仰に倣いなさいという意味ではありません。そうではなく「私がキリストに倣う者であるように、あなた方もこの私に倣う者となりなさい」(11:1)と言っているのです。「本当にキリストに属したいのであれば、私を見よ、私のように生きよ」とパウロは迫ります。キリスト者になるとは、この世的に成功し、良い暮らしをすることではなく、愚か者とされ、弱い者と罵られ、侮辱される者となることだ。キリストはそうなさったではないかと彼は訴えます。
・コリントの人々の罪は「傲慢」です。パウロから福音の手ほどきを受け、アポロから成長を励まされて、彼らは育ってきました。そしてもう一人前になったから、自分たちの知恵でやっていける。パウロは要らない、アポロも要らない、と彼らは言い出しているのです。コリントの人々が、パウロの悪口を言ったり、非難したりしているとすれば、彼らの心はパウロだけではなく、神からも離れてしまったのです。

3.弱さの中に強さがある

・今日、私たちは招詞として、第二コリント12:10を選びました。次のような言葉です「それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです」。パウロには「肉の棘」(12:7)が与えられていました。何らかの重い病に侵されていたと言われていますが、その病気が何であるのかははっきりしません。ある人は「癲癇」ではないかと推測し、別の人は「心因性の疾患」ではないかと言います。その病気のため、パウロの活動は制約され、彼はその「棘」を取り除いてくれるよう繰り返し祈りました。しかし病は取り去られず、パウロは主の言葉を聞きます「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(12:9)。その体験を通じてパウロは「弱さの中にこそ本当の強さがある」ことを知ります。それが招詞の言葉です。
・パウロはコリントの人々に対して、あなた方は「満足し(4:8)、富み(4:8)、強く(4:10)、尊敬されている(4:10)」と皮肉を持って語りました。それに対して自分を、「侮辱され、飢え、渇き、着るものもなく、虐待され、身を寄せるところもない」と語ります(4:10-11)。どちらの生き方がキリスト者として求められる生き方なのでしょうか。イエスは言われました「富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である」。(ルカ6:24-26)。何故富むことが、満腹することが、笑うこと、人に褒められることが不幸なのでしょうか。それは悪の世にあって富み、満足し、笑う人は現実の不条理を見ようとしないからです。しかしその人が見ようとしなくとも不条理はその人の人生に押しかかり、やがて支配するからです。
・いじめを見てみぬ振りをすれば、自分がいじめの対象になることをとりあえずは回避できます。しかし、いじめという悪はそこに残り、多くの人がそのために涙を流しています。現代では妊娠した女性の多くは遺伝子診断を受け、仮に陽性であれば9割の人がその子を中絶するそうです。障害のある子を生む危険性を除去するために、妊娠を「なかったことにしよう」とするのです。原発事故は今でも10万人以上の人々を避難民とし、故郷から追放していますが、この事実に目をつむって、原発事故など「なかった」ことにすれば、原発の再稼働により、私たちは割安の電気料金で快適な生活が出来ます。しかしキリスト者はこのような不条理に目をつむることは出来ません。何故ならば私たちの主イエスはこのような不条理に抗議され、そのために十字架で死なれたからです。聖書の教えは十字架を出発点にしています。主が十字架を担われたのであれば、主に従う私たちが十字架を見て見ぬふりは出来ません。見て見ぬふりをしなければ、そこには苦難や困難が生じます。いじめられたり、障害のある子を育てたり、高い電気料金を支払う必要も出てきます。その苦難や困難を引き受けていくのがキリスト者の生き方です。何故ならば、私たちには「キリストを信じることだけではなく、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられている」(ピリピ1:29)からです。
・「涙を知らない者は神を知らない」という言葉があります。水野源三さんは幼い頃に罹った熱病のため、全身麻痺になり、寝たきりで手足も動かせず、まばたきだけでしか意思疎通が出来ませんでした。そのまばたきを母親が聞き取って多くの詩を書き、「まばたきの詩人」と呼ばれた人です。その彼を28年間世話してくれた母親が亡くなった時、彼は歌います「主よなぜですか、主よなぜですか、父につづいて母までも、み国へ召されたのですか。涙があふれて、主よ主よとただ叫ぶだけで、次の言葉がでてきません。主よあなたも、私と一緒に、泣いてくださるのですか」。人生には悲しい出来事、苦しい出来事が多くあります。その中でキリスト者は希望を持ち続けます。パウロもそうです。キリストに捕らえられたばかりに、同胞のユダヤ人からは裏切り者と罵られ、異邦人には邪教を伝える伝道者として鞭打たれ、精魂込めて建て上げたコリント教会からは「彼は本当に使徒なのか」と疑われています。その中で彼は語ります「それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです」。
・キリストが十字架の死から起された。それ故にキリスト者は、苦難の中にあって絶望せず、むしろ苦難を神の恵みの働く場として受け入れることが出来ます。故に、苦難からの解放は必要ではありません。苦難の中で、与えられた使命を果たすために努力します。その時、彼の耳に神の声が聞こえてきます「あなたの人生には意味があった。それによって世界はより良い場所になった」。この言葉を聞くことの出来る人生こそ、パウロの目指したものであり、私たちの目指す人生です。

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