江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

証や賛美

2023年6月25日 神学校週間 証し 鬼澤寛

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「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」
コヘレトの言葉 第3章1節です。

還暦を迎える年になった時に、これを機に何かやっておきたい事が無いかと考えました。いろいろ考えましたが、高校生の時に学校で配られた、多分えんじ色だったと思うのですけど、ギデオンの日英対訳の聖書が頭に浮かびました。
何度読んでみても理解出来なくて、悔しい思いをした事を思い出しました。もともと読書は好きでしたから、何とか聖書を理解しようと挑戦してみました。それから、40年以上にわたって、いろいろな聖書を何冊も読みましたが、読めば読むほど疑問点が浮かんできます、自分でも、よく飽きずに、何度も読んだなと感心しています。 新しい聖書が出たと聞いたら、今度こそ理解出来るかと買ってきて読みましたが、あまり、変わりませんでした。これが、やり残した事だと感じて、本気で聖書の勉強を始めてみようと思い立ちました。
「福音」とか、「御言葉」などと最近は平気で口にしていますが、教会に通い始めるまで、よく分からないものでした。 「福音」を検索すると良い知らせ?「御言葉」は、神の言葉、イエスの言葉だけでなく、聖書のすべての言葉?聖書のどこに書いてあるんだろう、福音書はあるけど、何が良い知らせなんだ、「御言葉」はどこに書いてあるのか、他教派の人ですが、牧師をしている友人がいてその友人に、しつこいくらいLINEで質問しまくりました。
結局、聖書を理解することは自分一人では無理だと思い、家族に「聖書を勉強したいんだけど、教会に行っていい。」と話をしました。すると、意外に簡単に「好きなことすればいいんじゃない、ただしウチの中では、勧誘しない事」と釘をさされました。
40年以上いろいろな聖書を読んでは来ましたが、分からないことだらけで教会に行って教えてもらえば、長年の疑問が解決出来るとウキウキした気分で、散歩の途中で見つけた篠崎キリスト教会に電話をしたわけです。
この時は、私がクリスチャンになるなんてまったく思ってもみませんでした。単純に聖書を勉強したいから、教会に行く、そんなふうにしか思っていませんでした。それで最初の言葉なんですけど「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」川口先生に呼ばれて、教会の中に入った時に一番最初に目に入ったのが、この言葉が書かれている額でした。
時が来たのかな?なんて漠然と思いました。それから、4年近く土曜日の聖書の勉強会が続いています。それで、最近、気付かされた事なんですけど、中野教会にメッセージの奉仕に行った時のことですが、礼拝が終わって中野教会の兄弟姉妹みんなでディスカッションしていた時に、何で篠崎教会を選んだのか?と質問されました。教義が自分に合っていたからなのかとか、一番近くにある教会だからなのかと聞かれました。
キリスト教について右も左も分からなかった者が教義で選ぶなんて論外です。一番近い教会を選んだというのも、家が教会だという友人が、自宅と篠崎教会のちょうど中間くらいにいます。本来なら、友人のいる教会に相談するのが筋ですが、何故か、篠崎教会に電話をしていた事に気づきました。なんでだろうと、答えに困っていると、「きっと、篠崎に行けって召されたんだよ。」と言われて、何か妙に納得しました。
「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」最近、この言葉の重みをつくづく感じています。
教会に通うようになり、聖書を読み進めていくうちに、神学への興味も、どんどん膨らんでいきました。聖書を学んで、神学に興味を持ちはじめても、まだ自分は聖書を勉強したいだけでクリスチャンになるなんて思ってもいませんでした。バプテスマを受けようと、決めた時もそうでした。
礼拝に参加するようになり、教会のホームページで、近々の宣教を振り返っている時に、寄留者という言葉が何故か心に残って、今まで自分は何なんだろうという違和感がありましたが、目から鱗が剥がれたように、疑問が解けたような気がしました。
出エジプト記の2章22節の「彼女は男の子を産み、モーセは彼をゲルショムと名付けた。彼が、「わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ」と言ったからである。」ここに有るように、そうか、自分は異国にいるんだなと感じました。ビリー・グラハムの言葉で「私の故郷は天国です。私はただこの世界を旅して通り過ぎているにすぎません。」というものが有ります。まさに、探していたのはこれだったんだと感じました。聖書の箇所ですと、ピリピ人への手紙 3章20節ですね。
古いですけど、私は文語役のこの言回しが好きです。「されど我らの国籍は天に在り、我らは主イエス・キリストの救主として其の處より來たまふを待つ」
二つの言葉、「私は異国にいる寄留者だ」と「我らの国籍は天に在り」、 この言葉に背中を押されるように、バプテスマを受けようと決心をしました。今では、まわりの友人達は私が洗礼を受けてクリスチャンになったと知っていますから、時々「死んだらどうなる?」なんて質問をしてきます。 私が、「国に帰る」と答えると、はてな?って顔をします。
バプテスマを受けクリスチャンになったからには、自分の様に、キリスト教とか聖書に興味はあるけど聖書を読んでも関連する本を読んでも、理解することが難しいと思っている人も多くいると思い、そんな人たちに聖書をわかりやすく説明できるようになれば、私と同じように回り道をしないでも、キリスト者になる人が、少しでも増えるんじゃないかな?と、考えています。
そして、私が神学校に入学するきっかけとなったのは、神学校週間で篠崎教会にいらした神学生の方から貰ったパンフレットです。教会から帰宅し、パンフレットを見ていて、そのままテーブルの上に置きっぱなしにしてあったのを、妻と娘が見ていて「学校行くんだ、やってみれば」、「いいじゃん」と気軽に言われたことを、教会で話をしました。
まだ、信仰歴も浅い私が神学校に行くなんて、まだ早いとか、みんなに反対されるだろうと思っていましたが、意外にも、入学を後押しされ驚きました。
本当に、私のような者が、神学生になってもいいのかと、悩みましたが、背中を押してくれる兄弟姉妹や、神様は自分の様な者にも学ぶことを許してくださっているのかと思い、神学校に入学する決心をしました。 また最初の言葉に戻りますが、「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」本当に、何をするのも、時があるということを実感しています。
聖書を学ぼうと決意して、教会に通うようになり、バプテスマを受けて短期間の間に、いままでの私の生活が大幅に変わっていきました。これからどうなっていくかは、私には分かりませんが、これからも、「Let it be」、「御心のままに」と全てを神様に委ねていこうと思っています。
私の背中を、後押ししてくれている教会の先生、兄弟姉妹また家族の期待を裏切らないように、より一層勉強し信仰を実践することが、一人前のキリスト者になる道だと思っています。私が、すべきことは、「御言葉」を求め、信仰を実践し福音をひろめていく事だと思っています。また、ビリー・グラハムの言葉を引用しますが、「神様は私たちに2つの手を与えてくださいました。1つは何かを受け取るために、そしてもう1つは何かを与えるために。」1つの手で神様からの「御言葉」を受け取り、もう1つの手で「福音」を広められるような、キリスト者になりたいと思っています。

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