江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年2月28日礼拝説教「世を照らす神の光」(ルカ9:28−36)

投稿日:2010年2月28日 更新日:

1.栄光に輝くイエス

 受難節第二主日を迎えています。イエスの死と復活を想起する時です。本日は「山上の変容」と呼ばれる記事をルカ福音書から読みます。イエスは2年間のガリラヤ伝道を終えられ、エルサレムに向かわれようとしておられます。エルサレムでは、敵対する祭司長や律法学者たちがイエスを捕えようとして、待ち構えています。エルサレムに行くことは受難の道であることをイエスは知っておられました。しかし、内なる声、父なる神の声はイエスにエルサレムに行くように命じられておられます。イエスは従おうとされながらも、人としての不安をぬぐいきれません。「十字架で死ぬことが救いなのだろうか、十字架以外に道はないのだろうか」、イエスの心に人としての迷いがあられたことは事実だと思います。聖書はイエスが死の恐怖と戦われたことを隠さずに述べます「キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブル5:7)。十字架で死ぬ、それは神の子にとっても大きな試練だったのです。
だから、イエスは、エルサレムに向かわれるにあたり、父の御心を確認されるために山に上られました(9:28)。聖書で山は、神と出会う特別な場所を示します。イエスは日常から離れて、非日常の場所に行かれ、そこで神と対面されました。この時イエスは弟子の中から、ぺトロ、ヨハネ、ヤコブの三人だけを連れて行かれました。イエスはこの三人をゲッセマネの祈りの場へも同じように連れて行かれました。祈りの場でこれから起こる啓示について、彼ら三人を傍らにおき、彼らにすべてを見せることで、彼らを証人にしょうとされたのでしょう。                                              
 山上でイエスが祈り、父なる神との交わりが始まるとイエスの顔が変わり、その服はまっ白に輝きました。そしてイエスご自身が光り輝きました。そこにモーセとエリヤが遣わされてきたとルカは記します。モーセは出エジプトの民を率いて約束の地を目指しましたが、その旅は人々の不平不満を一身に背負っての旅であり、しばしば山に登って神の御心を確認しています。エリヤは預言者として立たされましたが,その預言により権力者から迫害され、神を求めて山に登りました。その二人とイエスは「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について話していた」(9:31)とルカは書きます。二人はイエスが十字架で死ぬことこそ、神の御心であることをイエスに告げたのです。この会話を理解しなければ、この物語は単なる「変身の奇跡物語」になってしまいます。私たちはここで何が起きたかはわかりません。しかし、この神秘体験を通して、イエスがご自分の使命についての確信を持たれたことをルカは指し示しています。
イエスは神と交わることで、神の栄光に輝き始められました。この出来事の中に私たちはイエスの本来の姿を知ることができます。イエスは光なのです。イエスは、人間の救いのために、人の姿をもってこの世においでになりましたが、イエスの本質は神の子であり、それが顕れたのがこの山上での光り輝くイエスの姿なのです。イエスの光の性質についてはヨハネ1:1−3に記されています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」。イエスの山上の変容は、闇の世を照らす救い主としてのイエスの本来の姿が顕れ出たと理解すべきでしょう。
神の子はご自分の使命を確認すると山を降りられました。非日常から日常に戻られ、そして十字架の待つエルサレム、闇の世界に向かわれます。私たちも日曜日ごとに非日常の教会に来て神に会います。そこで使命を与えられ、山を下りて日常の世界、闇の世界に出ていきます。人の世はまさに光と闇のせめぎあいです。私たちが生きている世は闇を抱えています。アメリカの経済破綻以後、日本の経済、政治、社会構造などすべてが、その影響をうけ混乱し、企業の破産、労働者の失業問題など長く尾を引いています。経済問題のみならず、暗く生々しい事件も後を断たず起こり続けています。人の世の闇の部分が露わになったような時代です。しかし、人間は闇の中では生きてはゆけません。闇の世を照らす光は希望です。希望は私たちの行く先を照らし、足元を照らす光となります。イエスはその暗い人の世に光をもたらすために来られたのです。その光が福音なのです。
 教会は、イエスに倣い、この世の闇を照らす光として存在しています。キリスト者もまた世の闇を照らす光として存在しています。教会の力やキリスト者の存在がいかに小さく、たとえ弱々しく見えようとも、世の光としての存在には変わりはありません。私たちに、世の闇を照らす光としての使命を与えられていることを忘れてはなりません。

2.パウロを造り変えたイエス・キリストの光

 今日の招詞としてエペソ5:8-10を選びました。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実が生じるのです。なにが主に喜ばれるか吟味しなさい。」                                            
 もともと人間は神に造られた光の子として存在していたのですが、しだいに神にそむき、神から離れたことで、光を失ってしまいました。そのことをパウロは「あなたがたは、以前は暗闇でした」といっているのです。その証拠に生来の人は神の存在を信ずることができず、神がどのような方であるかも知らず、まして神に祈り、神と交わる喜びを知ることはありません。そのような人たちに神との交わりを可能にし、光の子となる力を回復させるためにキリストは来られたのです。
 福音は人にとっての光であり、世を照らす光です。そして私たちキリスト者一人一人も、世の闇を照らす光の役割をしているのです。この日本でキリスト者は少数ですが、光の役割をしています。キリストがいなかった場合を考えてみてください。誰がキリスト者のような、神から与えられた善意と正義と真実の役割を担うのでしょうか。エペソ人への手紙でパウロは「光から、あらゆる善意と正義と真実が生じる」と述べています。たとえどんな小さなことでも、善意と正義と真実がこもっているとしたら、それは私たちの希望となります。ですから教会は常に、この善意と正義と真実に敏感に反応しています。平和運動や社会問題に無関心でおれないのも、教会がそんな本質をもっているからです。 
 パウロは、その善意と正義と真実をイエスから受け継ぎました。そのパウロは初めキリスト者を迫害する者でしたが、復活したイエスの強烈な光を浴びて回心しました。そしてパウロは自ら背負っている罪の深さと、自らの愚かさという自分の暗い部分をしっかり見定めねばなりませんでした。パウロの新生はそこから始まりました。そして自分のような者が、これからイエスに従って生きていくにはどうすればよいかを、突き詰めて考えたのです。人間は背後から大いなる光に照らされていることを、空を見上げているだけでは、なかなか知ることはできません。しかし、魂が砕かれ自らの愚かさを恥じ、顔を伏せ、自らの足元を見て歩くとき、そこに長く黒々と伸びている自分の影を見ることができます。その影が黒ければ黒いほど、自分を照らしている光の強さがわかるのです。パウロはコリント教会の人々に書き送ります「『光が、闇の中から輝き出よ』と命じられた神は、私たちの心の内から輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光をあたえて下さいました」(2コリント4:6)。イエス・キリストの光は人を新しく造り変えるのです。

3.私の恵みはあなたに十分である

 福音は、目標や自信を失っている人たちに希望の光を与えます。というより与え続けています。ただ人はそのことに気づかないという方が当たっているのかも知れません。松野助則さんが去る1月28日天に召されました。その告別式の席上で、第二コリント12:9が読まれました。このような言葉です「主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。私はこの聖句を聞いて心をうたれました。松野さんは肺気腫でした。肺気腫は肺の弾力がなくなり、肺が膨張して、呼吸困難になる病で、最後の頃は酸素ボンベを引いていました。その病に加えて10年前に天に召された奥さんのことが、信仰上の疑問でした。自分より信仰が厚い妻に、なぜ神はこんなにも早い死を与えたのか。それは松野さんの生涯にわたる深刻な疑問でした。
 筒井家の家庭集会に出席していた松野さんが語っていたのは、ほとんどその疑問でした。松野さんの信仰上のわだかまりが長い年月を経ても解けない、そのことが問題でした。しかし、松野さんは、死を前にして、この聖句「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」を心から信じ、安らかに天に召されたと聞きました。松野さんは臨終の床で、周囲の方々に感謝しながら召されて行かれたそうです。松野さんの心にまだわだかまりが残っていたとしたら、感謝の言葉は残せなかったでしょう。松野さんの感謝の言葉は心からの真実の声であったと私は信じています。松野さんの心のわだかまりは、御言葉の光に少しずつ溶かされ、慰められ、召されてゆかれたのでしょう。松野さんはその生涯にわたる疑問を受け入れることができたのだと思います。松野さんは最後にキリストの光に照らされ、与えられた試練を感謝して、天に帰って行かれたのです。ある人が言ったそうです「その人の一生の価値は、決して、その人の働き盛りとか、人気絶頂の時に決定されるのではない。それは実にその人の臨終の枕元においてなされるのである」、松野さんの最後を見ていたら、この言葉が真実だと思いました。
 人はその不幸が神から与えられた試練であると悟った時、それを素直に受け入れることができます。パウロは教えます「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(1コリント10:13)。パウロがキリストの光によって変えられたように、松野さんもキリストの光によって、その人生を全うされました。この光が私たちのために自らを捨てて十字架につかれた、その十字架によって私たちは再び光の子とされた、そのことを受難節の今、思い起こしたいと思います。

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