江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年3月7日説教(ルカ13:1-9、実のならないいちじくになるな)

投稿日:2010年3月7日 更新日:

1.悔い改めなければ滅びる

・受難節第三主日を迎えています。受難節はイエス・キリストが十字架で苦しまれたことを想起する時です。それは同時に、私たち自身も、与えられる苦難の意味を考えるように導かれる時であります。人生には多くの苦難があります。それらの苦難の意味は何か。今日読みますルカ13:1-9では、イエスが最近起こった事件を引用して、苦難の意味を問われています「ガリラヤから来た巡礼者がピラトの部下に殺された。シロアムの塔が倒れて18人が下敷きとなって死んだ。その出来事をあなたたちは自分の問題としてどう考えるか」と。このような出来事は毎日どこかで起こっています。集団登校の子供たちの列に車が飛び込んで多くの死傷者が出ることがあります。夏になれば水難事故で死ぬ人が出ますし、冬には山で遭難する人もいます。殺人の犠牲者になる人も、自殺する方も大勢おられます。あまりにも多くの出来事が起こるため、それが日常化し、私たちは出来事の意味を考えようともしません。しかし、死傷した誰かが自分の身内だったりすれば、話は違います。その時初めて、無関係だと思っていた出来事が私たちの出来事であったことに気づき、出来事の持つ意味の重さが私たちに迫ってきます。
・ルカの記事を読んでいきましょう。ルカは記します「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた」(13:1)。イエスが人々に話をしておられた時に、知らせを伝える者がいた、それは「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」という知らせでした。W・バークレーという聖書学者は、さまざまな資料から、出来事を次のように推測しています「ローマ総督ピラトはエルサレムに新しい用水路が必要だと考え、その工事の費用に神殿宝物庫の金を用いた。このことは信仰深いユダヤ人たちを激しく怒らせ、暴動が起こりそうになった。そこでピラトは棍棒を持った兵士たちを変装して群衆の中にもぐりこませ、合図とともに一斉に襲い掛かり、彼らを解散させた。その時、かなりの数のガリラヤ人に犠牲が出た」。ガリラヤはローマの支配に武力で抵抗する熱心党の発祥の地であり、そのために巡礼のガリラヤ人に被害が出たのでしょう。
・当時の指導者であるパリサイ派の人々は、「殺されたのは神の下された罰だ」として、ガリラヤの過激派たちを批判していたようです。それに対してイエスは言われました「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(13:2)。「ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからか」、「決してそうではない」、イエスは出来事と罪の因果関係を否定されます。しかし同時に言われます「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」、出来事は単なる偶然ではなく、人間の罪に対する警告として為されたのだと。だから悔い改めよ、神に立ち帰れと。
・またイエスは最近起きた痛ましい出来事、シロアムの塔の崩壊にも言及されます「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか」(13:4)。エルサレムには市内に水を供給するための地下水道があり、その出口にシロアムの池がありました。シロアムの塔はその水道のための塔、神殿の献金を用いて建設中だったのでしょう。その塔が倒れて大勢の人が死にました。当時の人々は言いました「彼らは神殿の金を用いた異邦人の仕事のために働いていた。だから神が彼らを罰せられたのだ」と。当時の人々は「罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれたことがあるだろうか」(ヨブ記4:7)と考えました。非業の死を遂げるとか、尋常ならざる死に方をしたのはその人の罪の故だと。しかし、イエスは否定されます「ほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか」、「決してそうではない」。そして言われます「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。同じ表現が二度繰り返されています。それは、悲惨な出来事を自分たちへの呼びかけ、警告として受け取ることを求めておられるからです。

2.実のならない木は倒される

・6節からは実のならないいちじくの木のたとえが語られます。ルカは記します「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか』」(13:6-7)。いちじくの木をぶどう園に植えることは一般的に行なわれていました。主人は、木がいつまでも実を結ばないのを見て、「その木を切り倒せ」と命じます。しかし園丁は執り成します「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」(13:8-9)。「実を結ばない木」、洗礼者ヨハネの説教にも現れた表現です「悔い改めにふさわしい実を結べ・・・良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3:8-9)。しかしイエスはヨハネとは違います。彼は父なる神に執り成しの祈りをされます「今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません」。私たちはイエスの執り成しにより、猶予が与えられているのです。
・いちじくの木は実をつける機会が3年間も与えられていたのに、実を結ばなかった。期待されているのにそれにふさわしい努力をしなかった。「老後の生活はその人がそれまで何をしてきたかによって決定される」という言葉があります。「どう生きるべきか」、「どう死ぬべきか」を考えずに、人生を面白おかしく生きてきた人の老後は悲惨です。例え経済的に恵まれていても、精神的には、孤独なさびしい老後と死を迎える可能性が高いでしょう。イエスは言われます「私たちは、私をお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る」(ヨハネ9:4)。夜が来てからでは遅い、今のうちに為すべきことを為せ、時のあるうちに悔い改めよとイエスは言われます。パウロも応えて言います「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(�コリント6:2)。今は許されている時、猶予されている時、恵みの時である。しかしその時はやがて終わる。「あなたの命は後1年です」と宣告されたら、私たちは何をするのでしょうか。少なくとも、今までのような生活はしない、その1年は特別な1年になるでしょう。私たちは死刑を宣告された死刑囚であり、人生とはその刑の執行を猶予されているのだという事実を冷厳に見極めることが必要です。

3.イエスによって救われる

・今日の招詞にヨハネ3:16-17を用いました。次のような言葉です「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。
・ルカ13章の物語の前半では「滅びる」という言葉が用いられています。後半の物語では「切り倒す」という言葉が用いられ、いずれも「裁き」を意味しています。裁きについて、私たちはどう考えたらよいのでしょうか。イエスが示した神はいつくしみ深い父でした。人が誰も滅びることなく、すべての人が生きることを望まれ、罪人に赦しを与える方でした。しかし、その神がある者には殺されることを許され、別な者には倒壊した塔の下敷きになって死ぬことを認められます。なぜ愛の神が、ご自分の民が無残に死んで行くのを容認されるのでしょうか。突然襲い掛かってくる不幸を見て、人は常に神に問いかけてきました「主よ、何故ですか」、「主よ、いつまでですか」。哲学者ニーチェは言います「苦しみそのものが問題なのではない。何のために苦しむのかという絶叫にも似た問に対して、回答がないのが問題なのである」。だからニーチェは言います「神などいない」。
・信仰者は反論します「正義の神が世界を支配されており、罪なくして滅ぼされる者はなく、人はその実を刈り取るのだ。人の受ける苦難は罪の結果だ、義にして公平なる神は、必ず善人には報い、悪人には罰せられる」。しかし世の現実はそうではありません。コヘレトは書きます「何事も同じで、同じひとつのことが善人にも悪人にも良い人にも、清い人にも不浄な人にも臨む・・・太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じ一つのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ」(コヘレト9:2-3)。聖書記者コヘレトもニーチェと同じことを言っているように聞こえますが違います。彼は言います「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」(コヘレト3:11)。彼は「わからないことは神に委ねる」信仰を失ってはいないのです。
・今日、私たちは応答賛美として新生讃美歌515番「静けき河の岸辺を」を讃美しますが、この詩を書いたスパフォードも多くの苦難を経験した人です。彼は厚い信仰を持った実業家でした。事業は大きな成功を収め、愛する妻、息子、4人の娘と幸せな家庭を築いていました。熱心なクリスチャンとして尊敬されていました。1871年、そんな彼に悲劇が訪れます。シカゴの大火によって息子を失い、彼の事業も大きな損害を受けます。その後。彼と家族はヨーロッパで休暇を過ごすために汽船の席を予約しますが、スパフォードだけが仕事の関係でやむなく別の便でヨーロッパに向かうことになります。先にヨーロッパに向かった彼の妻と4人の娘たちを乗せた汽船は航海中に他の船と衝突、彼の妻は救助され助かりますが、娘たち全てを失ってしまいます。まるで、現代のヨブのように、苦難が次から次に押し寄せました。スパフォードはその悲報を受けて妻の待つヨーロッパに向かい、航行中の汽船のデッキから、娘たちを呑み込んだ海を深い悲しみの中で見詰めます。その時、彼の心を驚くほどの平安が包み込みはじめました。「愛する娘たちとは再び天国で必ず会える」、その慰めを直接神から与えられたのです。彼は自分の子供たちの命を取り去られる経験を通して、「その独り子をお与えになった」神の愛を知ります。神もその子を亡くされた。彼は歌いだします「It is well, it is well with my soul(心安し、神によりて安し)」。
・スパフォードの経験が私たちに教えるのは、人は苦難に会うことによって、はじめて神に出会い、人生の意味を見出すということです。「医療は痛みに始まり、痛みに終わる」と言います。痛みこそ体の防御装置であり、生きていく上で不可欠なものです。この痛みが人間を人間にしていくのです。イエスは言われました「ガリラヤ人たちがなぜ殺されたのか、シロアムの事故で18人が死んだのは何故か、すべてあなたがたが悔い改めて救われるための尊い犠牲なのだ。だから悔い改めなさい。そのための猶予を父なる神にお願いするから」。日本で年間3万人が自殺するのは何故か、それを自分の問題と考えた人々は「いのちの電話」を創設し、今も多くのクリスチャンたちがそのために働いています。「ふさわしい実を結べ」、「実のならないいちじくになるな」、そういう呼びかけが今なされています。

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