1.迫害の中にあるユダヤ人キリスト者へ
・ヘブル書は迫害の中にあるユダヤ人キリスト者たちにあてた手紙と言われている。弟子たちの伝道により、多くのユダヤ教徒がキリスト教徒に改宗したが、キリスト教は当時は異端とされ、家族・親族から絶縁され、地域共同体からも追われた。同時代に書かれたヨハネ書は記す。
-ヨハネ16:2-4「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をも私をも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来た時に、私が語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」
・迫害の中で、一部の者たちは、キリストの福音を捨ててユダヤ教に戻ろうとしていた。著者はキリストによって新しい時代が来たのであって、キリストこそ旧約聖書の預言の成就なのだと教会の人々を励ます。
-ヘブル1:1-2「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によって私たちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました」。
・神はキリストを通して自己を啓示して下さった。キリストは地上で為すべきことを終え、今は天で神の右に座しておられる。この方を離れて、呪われた世界にまた戻ろうとするのか、やめなさいと著者は叫ぶ。
-ヘブル1:3「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」。
・ユダヤ教の教えの中心は、「モーセの律法を守る」ことと、「祭儀を行う=犠牲の捧げものを捧げる」ことである。へブル書は「キリストは律法や祭儀の完成者として来られた。キリストの購いの死を通して、律法と祭儀はもはや不要になった」と主張する。
-ヘブル10:12-14「キリストは、罪のために唯一の生贄を献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです」。
・だから今、迫害で苦しくとも、耐えなさい。この迫害はあなたを鍛錬するための試練なのだと著者は書き送る。
-ヘブル12:5-12「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである・・・およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」。
2.ヘブル1章と私たち
・ヘブル1章には大事な教えがいくつかある。最も大事なことは、「神はキリストを通して自己を啓示された」という事実だ。私たちはキリストを通して、神を知る。具体的には聖書に示された主の言葉を通して、またキリストに生かされた人々の言動を通して、神の御心を知っていく。
-ヨハネ14:8-9「フィリポが『主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足できます』と言うと、イエスは言われた。『フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ。なぜ、私たちに御父をお示しくださいと言うのか」。
・キリストが教えて下さったのは、「神は私たちを愛して下さっている」ということだ。
-ルカ12:29-32「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな・・・あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすればこれらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。
・だから私たちが為すべきことはその愛に応えること、それが律法を守っていくことだ。そして律法とは「神を愛し、隣人を愛していく」ことだ。
-マタイ22:37-40「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている』」。
・神を愛するとは、この地上では隣人を愛していくことだ。聖書の教えは突き詰めれば、「あなたの隣人を愛せ」の一語に集約される。隣人を愛する、そこに私たちの人生の全てがかかっている。
-マタイ25:40「王は答える。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである』」。
3.へブル書とはどのような手紙か(市川喜一・新約聖書注解から)
・本書の手紙としての形式は最後の結びのところに見られるが、手紙には欠かせない最初の「誰から誰へ」と差出人と宛先人を表示する部分と挨拶はなく、差出人(著者)が誰で、受取人がどのような人々であったのか、確実なことは分からない。テモテに言及していることより、伝統的にはパウロ書簡とされてきた。
-ヘブル13:22-25「兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください、実際、私は手短に書いたのですから。私たちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒に私はあなたがたに会えるでしょう。あなたがたのすべての指導者たち、またすべての聖なる者たちによろしく。イタリア出身の人たちが、あなたがたによろしくと言っています。恵みがあなたがた一同と共にあるように」。
・著者が旧約聖書を典拠として議論をしている事実から、ユダヤ人向けに書かれたとされ、「ヘブライ人への手紙」と名付けられたが、決定的ではない。手紙の一部がローマのクレメンスの手紙(紀元95年)に引用されていることからそれ以前のものとされる。パウロの時代からはかなり時が経っていることがうかがわれ、八十年代から九十年代前半と見られる。その時期はドミティアヌス帝(在位八一~九六年)の時代と重なる。彼はキリスト教徒を迫害した皇帝として有名であり、キリスト教徒迫害が手紙の背景にある。
-ヘブル10:32-34「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また・・・財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです」。
・本書は、イエス・キリストを信じることから生じる困難に疲れ果てて、元のユダヤ教に戻ろうとするユダヤ人に対して、イエス・キリストがユダヤ教の諸人物や諸祭儀と較べていかに優っているかを聖書に基づいて論証し、キリストへの信仰を励ますために書かれたのであろう。著者はこの手紙を「勧告の言葉」と呼んでいる。実際の信仰生活の中で、様々な困難や誘惑に遭遇している信徒たちに、キリスト信仰に固く立つように励まし、情理を尽くして説き勧める。
-ヘブル13:22「兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください、実際、私は手短に書いたのですから」。