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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

聖書教育の学び

2020年12月27日聖書教育の学び(2020年12月2日祈祷会、マタイによる福音書2:13-23、ヘロデの幼児虐殺とイエスのエジプト避難)

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1.エジプトへ避難する

 

・「ユダヤ人の王」の誕生を学者たちから聞いた「異邦人出身」のヘロデ王は、自らの王位が脅かされる危機を感じ、王の殺害を企てる。他方、ヨセフに危険が伝えられ、彼は幼子イエスとマリアを伴い、エジプトへ避難した。

-マタイ2:13-15「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて子を連れて、エジプトへ逃げ、私が告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデがこの子を探し出して殺そうとしている。』ヨセフは起きて夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、『私は、エジプトから私の子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」

・ヘロデは、ユダヤ人の王を除くために、可能性を持つベツレヘムに住む二歳以下の男児を虐殺した。

-マタイ2:16-18「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。』」

・「ラマで声が聞こえた」というエレミヤ書の引用は創世記の記事からくる。ラケルはベニヤミンを産んだ後、命を落とし、道の傍らに葬られ、ヤコブがそこに記念碑を建てた。そこがラマであった。(創世紀35:16-20)。それから700年後、そのラマで、バビロン捕囚に連れ去られる子たちをイスラエルの母ラケルが泣きながら見送ったとエレミヤは叙述する(エレミヤ31:15)。マタイはそれを引用することにより、ベツレヘムで子を殺された母親たちの悲しみを記述する。

-エレミヤ31:15「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる、苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む、息子たちはもういないのだから」。

 

2.エジプトから帰国する

 

・ヘロデは紀元前4年に死に、イエスの家族はイスラエルへの帰還を命じられる。

-マタイ2:19-21「ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。『起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命を、ねらっていた者どもは、死んでしまった。』そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た」。

・この記述はモーセに「あなたを迫害していた王は死んだ。だからエジプトに戻れ」とのお告げがあったことと通じる。

-出エジプト記2:23-25「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働の故にうめき、叫んだ。労働の故に助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」。

・ヘロデ死後、領土は三分割され、三人の息子が相続した。ユダヤはアルケラオに、ガリラヤはヘロデ・アンティパスに、北東とヨルダン川対岸はピリポに分割され、彼らはそれぞれの領主に納まった。アルケラオは残忍で、彼が支配するユダヤは安全ではない事情を知ったヨセフはユダヤに帰るのを躊躇し、一家はガリラヤに移住する。ガリラヤ王ヘロデ・アンティパスは、アケルラオより穏和な領主だった。

-マタイ2:22-23「しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでいると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方にひきこもり、ナザレという町に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われてことが実現するためである。」

 

3.私たちはこの物語をどう読むか

 

・ベツレヘムでの虐殺が実際にあったのか、歴史上は確認できない。橋本滋男は注解書に「それは史実ではないだろう」と記す(新共同訳新約聖書注解Ⅰ)。J.H.チャールズワースは、マタイは「イエスが旧約聖書に見出される預言を成就した方であるが故にメシアである」ことを証しする記事を書いているとする。-「イエスのベツレヘム生誕はミカ5:1-3の預言成就であり、イエス家族のエジプト逃避はホセア11:1(「まだ幼かったイスラエルを私は愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」)の預言の成就であり、ヘロデによるベツレヘムの幼児虐殺、及びイエス家族のナザレへの帰還は、モーセの幼児期、出エジプトの出来事との類似を描くことによって、イエスを「新しいモーセ」と主張している」(J.H.チャールズワース『史的イエス』(教文館、2012年)。

・マタイは歴史を記述しているのではなく、信仰の視点から記述している。信仰の眼で見て気づくことの最初は、マタイはイエスを「新しいモーセ」として描いていることである。当時メシア出現の期待があり、人々は「モーセがイスラエルの民をエジプトの奴隷から解放したように、新しい解放者が現れる」と待望していた。マタイは「イエスがエジプトに逃れられ、その後イスラエルに戻り、ナザレに住まれた」と記述するが(2:19-23)、これはイエスこそ、「エジプトから引き出された」新しいモーセ、解放者であるとの信仰の告白だ。またモーセはエジプト王から殺されようとするが、神はモーセを救い出され、モーセは解放者としてイスラエルの民をエジプトの奴隷から救い出す。同じように、ユダ王ヘロデはイエスを殺そうとしてこれを果たせず、イエスは解放者として、人々を「罪の縄目から救い出される」と告白している。

・信仰の眼から見て第二に見えてくることは、「神が御子をエルサレムではなく、ベツレヘムで生まれさせられた」ことの意味だ。ベツレヘムはエルサレムの南にある「小さな町」で、その町でイエスは生まれられ、イエスに対する最初の礼拝が行われた。他方、エルサレムは「神の都」とされた大きな町だが、その町では誰も新しい王の誕生を喜ばず、逆に新しい王を殺すための軍隊の派遣が準備された。30数年後、エルサレムはイエスを捕らえて十字架につける。エルサレムはイエス生誕の時にも、死の時にも、イエスに敵対し迫害を加えた。マタイが福音書を書いた80年代にはエルサレムはローマ軍によって破壊されて廃墟となっていた(紀元70年ユダヤ戦争)。マタイはそこに神の行為を見ている。マタイは、エルサレムではなくベツレヘムに、人間の都ではなく神の平安の中に、キリストは生まれられたと告白する。

・信仰の眼でみた第三の視点は、イエスを神の子として最初に拝んだのは、ユダヤ人ではなく、異邦人であったとの告白だ。神の民とされたユダヤ人指導者たちは、「新しい王が生まれた」との知らせに自分の地位を脅かす存在を感じ、これを殺そうとした。他方、神の民ではないとされた異邦人たちは「パレスチナに世界を救う王が生まれた」との知らせを受けて、数千キロの道のりを旅して来る。マタイは、神はユダヤ人だけの神ではなく全ての人の神であり、イエスの救いは民族の壁を超えて全ての人にもたらされることを告げている。

 

4.クリスマス物語から学ぶこと

 

・ノーベル文学賞を受賞したパール・バックは、「わが心のクリスマス」という本の中で、少女時代に経験した中国でのクリスマスの出来事を記している。彼女の両親は宣教師で、彼女も少女時代を中国の鎮江で過ごした。彼女が12歳の時、中国北部で大飢饉があり、飢餓に追われた何十万人もの難民が彼女の住む町に流れ込んできた。

-パール・バック「わが心のクリスマス」から「朝になると、表門と裏門の前から、毎日のように死体が運び去られた。物乞いに来た人々は、施錠された門に隔てられ、力つきてその場で死んだ。私たちだれもが門を開けなかった。それは飢えた人々が畑の大麦を襲うイナゴの群のように、飛び込んでくるに違いないからだ・・・その12才の時のクリスマス、キリスト降誕祭の当日、門前に飢えて横たわっている人々の一人に赤ん坊が生まれた。あのベツレヘムの子のように、『宿には彼らのいる場所がなかった』ので、私の母は若い女を門の中に入れた。赤ん坊はわが家で生まれた。その子はしかし、すぐに死んだ。若い母親も生きられなかった・・・赤ん坊は一握りの骨になり、生命の始まりにはならなかった」。

-パール・バックは続ける「今、自分の国に住み、クリスマスの喜びの中で、私は彼らを想い出す。あの母と子は物乞いではなかった。泥棒でもなく、浮浪者でもなかった。ただ、『身を横たえる場所がなかった』のである・・・クリスマスが来るたびに私はあの母と子を思い出し、改めて誓いを新たにする。彼らは今も生きている。飢えに悩まされ、戸口で倒れて死んでいくこの地上の多くの人々の中に、今も生きている」。

・この悲しいクリスマスを体験したパール・バックは、戦後アメリカ人将兵と東洋女性の間に生まれ、棄てられた混血児たちを養うための「ウェルカム・ハウス」を造り、作品の印税のほとんどを捧げて、孤児たちの養母になっていく。日本でも戦後、占領米軍兵士と日本人女性の間に多くの混血児が生まれ、社会問題になったが、そのような出来事がアジア各地で起こり、子どもたちは混血故に棄てられていった。パール・バックは言う「私たちも祖先をたどれば多かれ少なかれ、混血児なのに」。クリスマスは平和の祭典ではなく、悲しみの時だ。その悲しみが神を信じる人々の信仰により、喜びの時となる。

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