江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2017年5月24日祈祷会(マルコによる福音書8:22−9:1、イエスの受難予告)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.ベトサイダで盲人をいやす

・イエス一行がガリラヤ湖北岸のべトサイダに到着すると、人々が一人の盲人を連れて来て、イエスに癒してほしいと願い出た。イエスは盲人の手を取り、目に唾をつけ、両手を頭の上に置き、「何か見えるか」と問うと、盲人は少し見えるようになり「木のような人が歩いているのが見える」と言った。
−マルコ8:22−24「一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのもとへ連れて来て、触れていただきたいと願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何が見えるか』とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのがわかります。』」
・イエスが再び両手を盲人の目に当てると、盲人ははっきり見えるようになった。
−マルコ8:25−26「そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。イエスは、『この村へ入ってはいけない』と言って、その人を家へ帰された。」
・ここでは盲人の癒しが2段階で為されている。最初はぼんやりと、二度目は鮮やかに見えるようになった。マルコは弟子たちがイエスを見ていながら、真のイエスが見えていない(マルコ8:18)ことを重ねて描いているのだろう。信仰者はこの最初の癒しの段階にあるのではないかと思う。キリストに出会うことによって見えるようになったが、まだぼんやりとしか見えない。イエスが来られて神の国は始まったが、まだ完成していない。私たちは、まだ地の国におり、ぼんやりとしか見えず、罪を犯し続ける。パウロは自分がこのような情況の中にあることを理解していた。彼はコリント教会への手紙で語る。
-1コリント13:12「私たちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。私の知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、私が完全に知られているように、完全に知るであろう。」

2.ペトロ、信仰を言い表す

・イエスと弟子たちは、ガリラヤ湖の北、ヨルダン川の源流近く、異邦の地フィリポ・カイザリアへ出かけた。その道すがら、イエスは、「人々は私のことを何と言っているか」と弟子たちに聞かれた。「洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、預言者の一人だ、と様々に言われています」と弟子たちは答えた。
−マルコ8:27−28「イエスは弟子たちとフィリポ・カイザリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、『人々は、私のことを何と言っているか』と言われた。弟子たちは言った『「洗礼者ヨハネだ」と言っています。ほかに、「エリヤだ」と言う人も、「預言者の一人だ」と言う人もいます』」。
・イエスは改めて弟子たちに、「では、あなたがたは私を誰だと思うか」と問われた。ペトロが「あなたはメシアです」と即答した。イエスはこのことを誰にも漏らすなと命じた。
−マルコ8:29−30「そこでイエスはお尋ねになった。『それでは、あなたがたは、私を何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『あなたはメシアです。』するとイエスは、自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」
・イエスの時代、ユダヤはローマの植民地として、苦しめられていた。人々は、神がメシアを遣わされ、ユダヤから外敵を追い出し、理想の王国を作って下さることを待望していた。彼らの望んだメシアはダビデのような力ある王で、だからダビデの子孫からメシアが生まれると信じていた。弟子たちはイエスの中に、そのメシアを見ていた。イエスはペテロの言葉を喜ばれたが、「自分がメシアである事を誰にも言わないように」と命じられる。メシアだとのうわさが立てば、イエスを王と担ぐ政治運動が起こる、それはイエスの望まれることではないからだ。

3.イエス、死と複活を予告する

・イエスはガリラヤ伝道の働きを終えられ、エルサレムに向かう決意をされている。エルサレムはイエスに反対する宗教指導者たちのいる場所だ。既にファリサイ派の人々はイエスを殺す相談を始めており(3:6)、イエスの師バプテスマのヨハネはヘロデ王に殺されている(6:27)。エルサレムに行けば、自分も殺されるかもしれないとイエスは感じておられた。それが父なる神の御心であれば従おうと思っておられるが、弟子たちはその事を知らない。イエスは弟子たちにその覚悟をさせるために、これから起こるであろう「迫害と死」について話された。復活予告は後代の教会の付加であろう。この時点でイエスは自己の復活は考えておられない。
−マルコ8:31「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」
・イエスの語られた受難予告は、弟子たちにとって受け入れがたいものだった。ペトロはイエスをたしなめた。イエスはそのペトロに、「サタンよ、下がれ」と叫ばれた。
−マルコ8:32−33「しかも、そのことをはっきりとお話しになった。するとペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」
・この「いさめる」と訳された言葉は、原語では「エピティマオー=叱責する」という強い意味を持つ。ペトロはイエスに、「馬鹿なことを言ってはいけません。あなたはエルサレムで王位につくべきだ。そんな弱気になってどうするのですか」と叱っている。イエスは、そのペトロに対して「サタンよ、引き下がれ」と激しい言葉を浴びせられる。新約学者滝澤武人氏はここを、「ペトロはイエスを大声で叱りつけた」と訳す。弟子が師を叱った。当然イエスの応答も穏やかではない。滝澤訳では、イエスはペトロに「黙れ、サタンめ、でしゃばるな、俺の後ろにひっこんでいろ」とする。激しい問答がここに展開されている。
・後の教会は、このイエスとペトロの激しい応答を受入れることが出来なかった。ルカは並行箇所で、「サタンよ、引き下がれ」という言葉を全て削除する(ルカ9:21-27参照)。初代教会の中心人物ペトロが、かつてイエスから「サタン」呼ばわりをされたとは信じられなかったからだ。マタイも出来事の衝撃を和らげるために、「あなたこそメシアです」というペトロの告白に対して、イエスの祝福を付け加える「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ・・・私はあなたに天の国の鍵を授ける」(マタイ16:17-19)。
・この箇所は弟子たちのメシア理解とイエスの理解が食い違っている事を示す。弟子たちは「栄光のメシア」を求めた。自分たちを助け、自分たちの夢を実現してくれるメシアだ。それに対してイエスの示されたメシアは「苦難のメシア」、他者の為に自分を捨てるメシアだ。弟子たちはこれを受け入れることが出来ず、イエスから「サタンよ、引き下がれ」と大声で叱られる。神への信仰がいつの間にか、自己の利益に執着するサタンの信仰になってしまうことを、この箇所は明らかにする。

4.十字架を背負う

・イエスは、弟子たちに、「福音のために自己を捨て、自分の十字架を担い、従いなさい」と教えられた。
−マルコ8:34−35「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『私に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。』」
・イエスはさらに、「福音のため、自分の命を失う者は真の命を得る」と語られた。
−マルコ8:36−37「『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。』」
・これらの言葉は、歴史上のイエスの言葉であるよりも、初代教会の信仰告白の言葉であろう。マルコはイエスの言葉を用いて、ユダヤ教からの迫害とローマ帝国の弾圧に揺れ動く教会の人々に語る。「真理はイエスにある。イエスから離れるな」と。
−マルコ8:38「神に背いたこの罪深い時代に、私と私の言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」。
・現在の私たちも、マルコ8章のペテロと同じ状態にあることを知る必要がある。「あなたこそキリストです」という言葉はギリシャ語「キュリオス・イエスース」だが、迫害があれば私たちは「アナテマ・イエスース(イエスは呪われよ)」と言い出しかねない存在なのだ。その私たちに福音宣教の業が託されている。
−ボンヘッファーの言葉から「イエス・キリストの生涯はこの地上ではまだ終わっていない。キリストはそのご生涯をキリストに従う者たちの生活の中で更に生きたもう」(D.ボンヘッファー「キリストに従う」P354から)。

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