江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年4月15日祈祷会(ヨハネ福音書8:1‐30、姦淫の女と人々の不信仰)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.姦淫の女の赦し

・律法学者とファリサイ人は、イエスを罠に掛けようとして、姦淫の女をイエスの前に連れてきた。イエスが「女に石を打て」と言えば愛と赦しの教えに反し、「石を打つな」と言えばモ−セ律法に背く。
−ヨハネ8:1‐6「イエスはオリ−ブ山へ行かれた。朝早く再び神殿の境内へ入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕えられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せとモ−セは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。』」
・姦淫の罪は男女とも石で打ち殺せと申命記に明記されている。しかし、相手の男性は罪に問われていない。彼らは女性だけを処刑しようとした。イエスは彼らが思いもしなかった質問で、彼らに反問される。
−ヨハネ8:7‐8「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。」
・「女を裁く資格は自分たちにはない」と気付いた人々は、年長者から順に立ち去った。年長者は長生きしただけ、罪も多いからである。イエスは女の罪よりはるかに大きな告発者たちの罪を指摘された。
−ヨハネ8:9‐10「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。』女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」
・ヨハネ7:53-8:11は聖書では〔 〕の中に書かれている。古い写本に記載がなく、後代の加筆の可能性が高く、資料的な問題があるという記号だ。伝承そのものは古く、イエスに由来することは争いがない。おそらく「罪を犯したにもかかわらず、罪を無条件に赦す」イエスの態度に、教会の人々が戸惑ったからだと思える。「姦淫のような重い罪を犯した者を無条件で赦せば、世の秩序は保てない。いくらイエスの言葉だからと言って受け入れがたいではないか」と考えた人々が、この記事を当初は福音書に編入しなかった。しかしこれはイエスの心を斟酌しない解釈だ。イエスは言われた「私もあなたを罪に定めない・・・これからは、もう罪を犯してはならない」、この言葉は無条件の赦しではない。裁きは為された、しかし処罰が猶予された、つまり刑の執行が猶予されていることを示す。ここに、「人を滅ぼすための裁き」ではなく、「人を生かすための裁き」が為されている。女を律法通り石打の刑で殺した時、一人の命が失われ、そこには何の良いものも生まれない。しかし、女に対する処罰を猶予することによって、女は生まれ変わり、新しい人生を生き始める。これこそが「イエスの為された人を生かすための裁き」なのだ。

2.イエスは世の光

・ヨハネは7:52で中断された物語を8:12から続ける。仮庵祭の夜は、神殿の庭の大燭台に灯が灯され、「神殿の照明の儀式」が行われた。儀式は夜を徹して続き、鶏の鳴く翌朝まで、神の前に舞踏と賛美が捧げられた。イエスの「世の光の説教」は、この祭の光を背景に行われた。
−ヨハネ8:12‐15「イエスは再び言われた。『私は世の光である、私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」
・イエスが「私は世の光である」と言うと、ファリサイ人は敵愾心を露わにした、
−ヨハネ8:13‐15「それで、ファリサイ派の人々が言った。『あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。』イエスは答えて言われた。『たとえ私が自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分はどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、私は知っているからだ。しかし、あなたたちは、私がどこから来てどこへ行くのか知らない。あなたたちは肉に従って裁くが、私はだれをも裁かない。』」
・「イエスは神から遣わされた」、だから「父なる神」が私の証人であると語られるが、人々は理解しない。
−ヨハネ8:16‐18「しかし、もし私が裁くとすれば、私の裁きは真実である。なぜなら私は一人ではなく、私をお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法では、二人が行う証しは真実であると書いてある。私は自分について証ししており、私をお遣わしになった父も私について証しして下さる。」
・ファリサイ人らはイエスを「神の子」と認めない。だから論争は解決しない。
−ヨハネ8:19‐20「彼らが、『あなたの父はどこにいるのか』と言うと、イエスはお答えになった。『あなたたちは、私も私の父も知らない。もし、私を知っていたら、私の父をも知るはずだ。』イエスは神殿の境内で教えておられた時、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕えなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」
・「私は命の水である」、「私は命のパンである」、「私は世の光である」、ヨハネ福音書のイエスは、繰り返し「私は〜である」と言われる。「私はある=ギリシア語エゴー・エイミー」は、「ヘブライ語=アニー・フー」の翻訳である。それは旧約聖書においては、神顕現のしるしとして用いられている。「イエスは神の子」であるという主張が、ヨハネに「エゴー・エイミー」という言葉を語らせる。イエスを「神の子」と認めるかどうかが、ユダヤ教徒とキリスト教徒を分けるしるしだ。
−出エジプト記3:13-14「モーセは神に尋ねた。『私は、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、あなたたちの先祖の神が、私をここに遣わされたのですと言えば、彼らは、その名は一体何かと問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか』。神はモーセに、『私はある(アニー・フー)。私はあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。私はあるという方が私をあなたたちに遣わされたのだと』」。

3.私の行く所にあなたたちは来ることができない

・「私はやがて去って行く。あなたたちはこのままでは罪のうちに死ぬ。私のいるうちに、悔い改めよ」と、イエスはユダヤ人に警告するが、彼らにはイエスの言葉の真意が伝わらない。
−ヨハネ8:21‐24「そこで、イエスはまた言われた。『私は去って行く。あなたたちは私を捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。私の行く所に、あなたたちは来ることはできない。』ユダヤ人たちが、『「私の行く所に、あなたたちは来ることができない」と言っているが、自殺でもするのだろうか』と話していると、イエスは彼らに言われた。『あなたたちは下のものに属しているが、私は上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、私はこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、私は言ったのである。「私はある」ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。』」
・ユダヤ教の指導者たちはイエスが神の子であることを理解できず、「あなたは誰なのか」と問う。
−ヨハネ8:25‐27「彼らが、『あなたは一体どなたですか』と言うと、イエスは言われた。『それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、私をお遣わしになった方は真実であり、私はその方から聞いたことを、世に向かって話している。』彼らはイエスが御父について話しておられることを悟らなかった。」
・「あなたがたは私を十字架にかけ、私が父のもとに帰った時、私がだれであったかに気付くだろう」とイエスは言われる。人は十字架と復活を通して、イエスが「神の子」であったことを知る。
−ヨハネ8:28‐30「そこでイエスは言われた『あなたたちは人の子を上げた時に初めて、「私はある」ということ、また、私が、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられた通りに話していることが分かるだろう。私をお遣わしになった方は、私と共にいてくださる。私を一人にしてはおかれない。私は、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。』これらのことを語られた時、多くの人々がイエスを信じた。」

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