江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年4月8日祈祷会(ヨハネ福音書7:32‐52、生ける命の水)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.下役たちイエス逮捕に向かう

・群衆はイエスをメシアだと信じ始めたが、祭司長やファリサイ人を恐れ、公に語れず、密かにささやいていた。そのささやきが祭司長とファリサイ派の人々の聞くところとなり、彼らはイエスを放置しておけなくなり、下役たちをイエス逮捕に向かわせた。
−ヨハネ7:31-34「群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、『メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか』と言った。ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長とファリサイ派の人々はイエスを捕えるために下役たちを遣わした。」
・イエスは自分の受難の時が近づいていることを悟られ、「自分はやがて父なる神の元へ帰るが、そこへはあなたたちは来ることはできない」と語られた。
−ヨハネ7:33‐34「そこで、イエスは言われた。『今しばらく、私はあなたたちと共にいる。それから、自分を遣わした方のもとへ帰る。あなたたちは私を捜しても見つけることがない。私のいる所にあなたたちは来ることができない。』」
・ユダヤ人はイエスの言葉、受難、復活、昇天、臨在を理解出来なかった。ヨハネ教会に敵対するユダヤ教徒たちの無理解をヨハネはここに記している。
−ヨハネ7:35‐36「するとユダヤ人たちは互いに言った。『私たちが見つけることがないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシャ人の間へ離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシャ人に教えるとでもいうのか。「あなたたちが私を捜しても、見つけることがない。私のいる所にあなたたちは来ることができない。」と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。』」
・ヨハネ福音書に登場する、祭司長やファリサイ人たちの誤りは、自分たちは、あくまで正しいと思いこみ、いささかも自己を疑わないことにあった。彼らは人に教える立場であり、他から何も学ぶことはないという傲慢な態度だった。イエスは「ファリサイ派の人と徴税人の喩え」で、彼らの傲慢を批判している。
−ルカ18:9‐14「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であってあのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

2.生きた水の流れ

・仮庵祭は、イスラエルの民がエジプトを出て、荒野を旅した時に、仮庵=天幕で過ごしたことを記念する祭りだ。荒野だから、水は乏しかった。民は水がなくなると、「何故我々をエジプトから連れ出したのか。私や子供たちを渇きで殺すためか」とつぶやいた(出エジプト記17:3)。神はモーセに「岩を杖で打て」と命じられ、モーセが打つとそこから水が出て、民は飲むことが出来た(民数記20:11)。それを記念して、仮庵祭の最終日には水注ぎの儀式が行われた。シロアムの池から採られた水が神殿に運ばれ、ラッパの吹奏と共にイザヤ12:3「あなたがたは喜びをもって、救いの井戸から水を汲む」が読まれ、祭壇に水が注がれる。水を汲まれることを通して、神の救いの恵みが想起される儀式が行われた。この水運びの行列を見て、イエスが立ち上がって叫ばれた「渇いている人はだれでも、私の所に来て飲みなさい」。
−ヨハネ7:37‐39「祭が最も盛大に祝われる終わりの日に、立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、私のところに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったのである。」
・人は宗教行事を行うことによって救われると誤解する。しかし、救いは信仰から来る。誰が命をもたらし、命を維持しておられるのかと言う信仰の本質を離れた時に、宗教は形式に陥ってしまう。
―申命記8:2-4「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。・・・主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。」

3.ユダヤ人指導者たちの不信仰

・群衆の間に、イエスをメシアと信じる者と疑う者の双方がいた。彼らの間に論争が起こった。群衆の中には「ガリラヤからメシアは出ない。メシアはダビデの故郷ベツレヘムから出ると聖書に書いてある」(ミカ5:1)と主張する者がいた。
−ヨハネ7:40‐44「この言葉を聞いて、群衆の中には、『この人は、本当にあの預言者だ』と言う者や、『この人はメシアだ』と言う者がいたが、このように言う者もいた。『メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいたベツレヘムから出ると聖書に書いてあるではないか。』こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。その中にはイエスを捕えようとした者もいたが、手をかける者はなかった。」
・イエス逮捕に遣わされた役人は、出会ったイエスの教えに感動して、イエスを逮捕することなく帰って来た。祭司長たちとファリサイ派の人々は、思いがけない成り行きに戸惑い、彼らを非難した。
−ヨハネ7:45‐49「さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は下役たちが戻って来たとき、『どうして、あの男を連れて来なかったのか』と言った。下役たちは、『今まであの人のように話した人はいません』と答えた。するとファリサイ派の人々は言った。『お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は呪われている。』」
・ニコデモは他の議員のように感情に走らず、律法に従い、まずイエスから話しを聞くべきであると主張した。しかし、指導者たちは、「ガリラヤから預言者は出ない」として、ニコデモの忠告を無視した。ニコデモはイエスを「神から来た教師」と信じ、夜中人目を避け密かに訪れ、イエスに教えを乞うたことがあった。(ヨハネ3:1‐15)
−ヨハネ7:50‐52「彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。『我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたか確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。』彼らは答えて言った。『あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。』」
・人はどのようにして「生けるキリスト」に出会うのだろうか。挫折や苦しみを通して、「自分の魂が飢え渇いている」ことを知らされた時だ。ヨハネ4章「サマリアの女」もそうだ。彼女にイエスは言われた「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(ヨハネ4:13-14)。女は直ちに反応した。「その命の水を私に下さい」。ヨハネ7章と同じテーマ「生ける命の水」がそこにある。ヨハネ7章が私たちに教えるのは、イエスを信じることにより、生ける水がその人から湧き出し、それは自分の渇きを癒やすだけではなく、その生命の水は周囲の人をも潤していくということだ。

-

Copyright© 日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会 , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.