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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

聖書教育の学び

2021年4月18日聖書教育の学び(2021年1月6日祈祷会、マタイ5:1-4、貧しい人々は幸いである)

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1.山上の祝福(前半)

 

-マタイ「5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。5:3 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。5:4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」。

 

・イエスの宣教活動を記したマルコ福音書が最初に世に出たが(70年頃)、マルコにはイエスの教えが少ないと感じたマタイは、マルコ福音書の枠組みを基本として、新たな資料を加えて、マタイ福音書を編集した(80年頃)。マタイは新たな福音書を編集するにあたり、イエスの説教を、五つの教え群にまとめた。それが山上の説教(5-7章)、弟子たちへの教え(10章)、種をまく者のたとえ(13章)、天の国で一番偉い者(18章)、終末の予告(24-25章)であった。マタイは新しい福音書を編纂することにより、イエスの教えを詳しく伝え、イエスの真価を世に知らしめようとした。

・山上の説教はその内容の濃さと量の多さから、特定の場所で一度になされたとは考え難い。おそらく、何度かにわたってイエスが話された断片が伝承され(語録資料Qと呼ばれる)、マタイがそれを「山上の説教」として一つにまとめたものと考えられる。マタイの収集と編集により、イエスの教えが読者の心に深く残るようになった。山上の説教が何処で行われたかの特定はできないが、おそらくはイエスが最初の宣教活動したカファルナウムに近く、緑の草原がガリラヤ湖へなだらかに下ってゆく丘の中腹だったのではないかとされる。今はその場所に「山上の垂訓教会」が建てられている。

-マタイ5:1-2「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこでイエスは口を開き、教えられた。」

 

2.「心の貧しい人々は幸いだ」は適訳だろうかとの疑問がわく

 

・最初の教え「心の貧しい人々は幸いである」を、E.シュバイツァー(NTD新約聖書注解)は「霊において貧しい人たちは幸福だ」と訳す。他方、ルカはこの個所を「貧しい者は幸いだ」とする。ルカでは「今、貧しい者も豊かになるから幸いである」と言われているが、マタイでは「神の前に貧しい者はそのままで幸いなのだ」という意味合いで語られている。NEVは「自分が神を必要としていることを知っている者は、どんなにか祝福されているだろう」と訳す。佐藤研は岩波版聖書でこの個所を「幸いだ、乞食の心を持つもの」と訳す。佐藤は注釈する「直訳では霊において乞食である者たち、つまり自分に寄り頼むものが一切ない者」とする。

・ギリシャ語原文では、「 oiJ ptwcoi; tw'/ pneuvmati」となる。「心が貧しい」は日本語では「謙遜な者」、「へりくだった者」の意味合いが強く、聖書の文脈から見れば誤訳ではないかと思える。「心が貧しい」と、「神の前に貧しい」、「自分に寄り頼むものが一切ない」とは意味が異なる。

-マタイ5:3「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」

・二番目の祝福は「悲しんでいる人たちは幸福だ」とされる。ここでは「神はもっとも必要とされるところに臨在する」というイエスの思いが語られている。その背景にはイザヤ書のメシア預言がある。「主は私に油を注ぎ・・・私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝え・・・打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を・・・嘆いている人々を慰める」(61:1-2)。

-マタイ5:4「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」

 

3.マタイ5:3-6(ルカ6:20-21)の釈義的分析

 

・上記を解決するために原典ベースでの釈義を行う。「貧しい者=oiJ ptwcoivは、極貧者を意味し、乏しい者(toi'" pevnhsin)とは区別される。イエスは「物乞いを必要とするような貧しい者」を祝福されている。注解者ルツは、マタイが「霊において oiJ ptwcoi; tw'/ pneuvmati」と付加することにより、当初の意味は変ってしまったと言う。「霊において貧しい者」とは、自発的に貧しい者、精神において貧しい者=へりくだった者、謙遜な者という意味になる。社会的な貧しさは後退し、心理的、倫理的な貧しさが全面に出てくる。古代教会はマタイの解釈を採用する。「ある者たちが境遇という点で貧しいとしても、それでもって彼らに至福が定められているわけではない」(トマス・アクイナス)。「神に何の関与もしない貧者が幸いなのではない」(アレクサンドリアのクレメンス)」。

・「悲しむ人たち(マタイ5:4、ルカ6:21)、イエスは具体的に「泣く者 oiJ klaivonte"」を祝福した(ルカ6:21)。それが、マタイでは精神化され「悲しむ者  oiJ penqou'nte"」にされている。世俗的悲嘆が罪全般に対する悲しみに関連付けられている。penqou'nte"(悲しむ)、paraklhqhvsontai(慰める)はイザヤ61:2から来ている。廃墟のエルサレムに対するイザヤの悲しみが、ルカでは文字通り「泣く者」に、マタイでは「罪に対する悲しみ」に変えられている。ルカでは、 oiJ klaivonte"(うめく者、苦しむ者、泣く者)の原文の意味が残されている」。

・「義に飢え渇く人たち(マタイ5:6、ルカ6:21)、ルカの「飢えている人たち  oiJ peinw'nte" 」が、マタイにおいては飢えと渇きの目的語として「義にth;n dikaiosuvnhn」を挿入され、物質的な飢えが、精神的な飢えに変えられているとルツは注解する。他方、シュバィツアーは、マタイは「イエスは飢えそのものを祝福されたのではなく、飢えに対する神の充足の約束が果たされることを賛美された」ことを明確にするために「義に飢え渇く」と修正したと見る。古代教会はこれを能動的に解釈した。「義の行いに飢えていることが足りないのである」(ヒエロニムス)」。

・「大半の注解者は至福において、ルカが原型でマタイは伝承を修正していると考える」。マタイ、ルカの釈義から言えることは、イエスが言われたのは文字通り、「貧しい者、飢えている者は幸いである」と言う祝福であった。マタイはそれを自己の神学的理解から内面化して編集し、ルカは貧困の事実を強調するために災いの言葉を編集した。そして、初代教会はマタイの内面化を更に進めて、それを普遍化、倫理化した。近代の解釈もそれに従う。「幸いであるのはなくても困らないからである。何故なら、天は彼らの魂の中にあるから」(J.G.ヘルダー)、「至福は救いの必要性を感じる気持ちの中にある」(F.C.バウル)、「未来を待ち望み、その待望において、自分たちを今、ここに、束縛するものから自由にする。」(R.ブルトマン)」。

 

4.釈義から黙想へ

 

・イエスは「神の前に貧しい者」、「自分に寄り頼むものが一切ない者」は幸いだと語られた。これはイエスの実体験から出た言葉だと思われる。イエスと弟子たちは、町から町へ、村から村へ、放浪しながら宣教を続けられた。パンがなくて食べることの出来ない時もあっただろうし、寝る場所を与えられず野宿されたこともあったろう。その経験がイエスの次の言葉からうかがえる。

-マタイ8:20「イエスは言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない』」。

・その中で神はイエスと弟子たちを保護され、パンを与えて下さった。その神への信頼をイエスは山上の説教の中で語られている。またマタイ4章「人はパンだけで生きるのではない」も、イエスの体験的真実ではないか。

-マタイ6:25-26「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。

・だからイエスは言われる「生きるために必要なものは父なる神が与えて下さる。その神を信頼して生きよ」と。この信頼に生きる者が「神の前に貧しい者」、「自分に寄り頼むものが一切ない者」と語られているのではないか。

-マタイ6:31-33「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。

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