江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年6月24日祈祷会(ヨハネ福音書15:1‐27、イエスはまことのぶどうの木)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.イエスはまことのぶどうの木

・ヨハネ福音書は13章からイエスが最後の晩餐の席上で言われた言葉を記録する。13章ではイエスが弟子たちの足を洗われた記事が、14章ではイエスがいなくなった後聖霊が与えられ、その聖霊が弟子たちを守ることが約束される。14章の最後には「さあ、立て。ここから出かけよう」(14:31)というイエスの言葉が記録され、それは18章冒頭につながる。
−ヨハネ18:1「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた」。
・14章は18章に連続しており、15章、16章、17章の3章は編集者の挿入部分と推測される。ヨハネ福音書の著者は何故ここに三つの章を挿入したのだろうか。ヨハネ福音書が書かれたのは紀元90年ごろであり、当時の教会はユダヤ教からの迫害の中にあった。ユダヤは紀元66年にローマへの反乱を起こし、敗北し、紀元70年、エルサレムは崩壊した。その後、ユダヤ教はパリサイ派を中心とした律法宗教に変わっていくが、ユダヤ教指導者たちは、民の律法違反が亡国の悲運を招いたとして、厳格な律法への忠誠を求めるようになり、その一つとして、背教者や異端者を会堂から追放する事を決定する。その結果、キリスト教徒は異端として激しい迫害を受けるようになった。動揺する信徒たちにヨハネはイエスの言葉を伝える。それが15章から始まる言葉だ。
−ヨハネ15:1‐3「『私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。私につながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が除かれる。しかし、実を結ぶ枝はみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。』」
・「私はまことのぶどうの木」、この言葉は「まことではない、偽りのぶどうの木」があることを前提にする。迫害の中で教会から離れてユダヤ教に戻る、それは命の源であるキリストから離れて、偽りのぶどうの木につながることだ。「ぶどうの枝が木から離れれば枯れて死ぬように、あなた方もキリストの教会から離れたら死んでしまう。だから離れるな」とヨハネは叫んでいる。
−ヨハネ15:4‐5「『私の話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも私につながっていなければ、実を結ぶことはできない。私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。』」
・命と力の源泉であるぶどうの木から離れていった者は、「枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」とヨハネは警告する。果樹の栽培においては剪定が不可欠であり、実を結ばない枝は切り落とされる。ユダヤ教からの迫害は父なる神がなされる剪定作業なのだ、その剪定を通して、御霊の実を結ぶのに妨げになる世の思い煩いや欲望がそがれ、より豊かな実を結ぶようになるとヨハネは言っている。だから「私につながっていなさい。そうすればあなたは良い実を結ぶ」とヨハネ書のイエスは語る。
−ヨハネ15:6‐7「『私につながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。』」
・聖書学者・松永希久夫はヨハネ文書の研究者として有名だが、彼は繰り返し、ヨハネ福音書の二重構造(福音書はイエスの言葉や行動を記述する単なる伝記ではなく、教会のメッセージが同時に書き込まれている)と強調している。

2.イエスに留まるとは、「愛しあうこと」

・「私につながっていなさい」の「つながる」は、ギリシャ語メノウ=留まるである。イエスが父に留まることによって父と一体であるように、弟子たちもイエスに留まって一体性を保ち続けることによって、信仰の実を結んでいく。その信仰の実とは、「互いに愛し合う」ことだ。
−ヨハネ15:8‐12「『あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる。父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛してきた。私の愛に留まりなさい。私が父の掟を守り、その愛に留まっているように、あなたがたも、私の掟をまもるなら、私の愛に留まっていることになる。これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。』」
・その愛の極致は、「友のため命を捨てる」ことである。イエスはそれを実践された。
−ヨハネ15:13‐15「『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。もはや、私はあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。私はあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。』」
・世を救う使命を託すためにイエスは弟子たちを選んだ。弟子がイエスを選んだのではない。ヨハネは迫害に苦しむ同胞たちにイエスの使信を伝える。
−ヨハネ15:16‐17「『あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私はあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。』」

3.迫害の予告

・ヨハネは何故弟子たちに迫害が臨むのかを、イエスの言葉を通して、明らかにする。
−ヨハネ15:18‐19「『世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。私があなたがたを世から選び出した。だから世はあなたがたを憎むのである。』」
・ユダヤ教団はキリスト教徒たちを、異端、裏切り者として敵視していた。
−ヨハネ15:20‐21「『「僕は主人にまさりはしない」と、私が言ったことを思い出しなさい。人々が私を迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。私の言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。』」
・世すなわちユダヤ教団がイエスの弟子たちを憎むのは、真の神を知らず、知ろうとしないからである。
−ヨハネ15:22‐23「『しかし人々は、私の名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。私をお遣わしになった方を知らないからである。私が来て話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地はない。』」
・イエスは数々の業を行ったが、それらの業は父なる神を顕わすためにほかならない。イエスの業を見ていなければ罪はないが、業を見てからの反抗は意志的反抗だから罪である。
−ヨハネ15:24‐25「『だれも行ったことのない業を、私が彼らの中で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、私と私の父を憎んでいる。しかし、それは、「人びとは理由もなく、私を憎んだ」と、かれらの律法に書いてある言葉が実現するためである。』」
・父は真理の霊を送り、霊は送られた者を導いている。霊の働きは誰の目にも見えない。
−ヨハネ15:26‐27「『私が父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方が私について証しをなさるはずである。あなたがたも、初めから私と一緒にいたのだから、証しをするのである。』」
・ヨハネ福音書には迫害を示唆する多くの言葉が残されている。世があなたがたを憎む、信徒が迫害を受けるという意味である。まさにヨハネ15章、16章、17章はイエスの言葉を借りて、ヨハネが迫害に苦しむ教会の人々にメッセージを送っている箇所なのである。
−ヨハネ15:18「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい」。
−ヨハネ16:33「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」。

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