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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

聖書教育の学び

2021年2月14日聖書教育の学び(2014年4月23日祈祷会、マタイ11:1-19、ヨハネとイエス)

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1.洗礼者ヨハネとイエス

 

・イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた。ヨハネはイエスの師であった。イエスは受洗後も、故郷には戻られず、ヨハネの下で学びを深められた。しかし、イエスは次第にヨハネの言動に違和感を持たれるようになる。ヨハネのように「罪びとを断罪し、悔い改めに至らせる」ことが、果たして「神の国の知らせなのか」という疑問を持たれた。その後、ヨハネはガリラヤ領主を批判して捕えられ、死海のほとりのマケロス要塞に幽閉され、イエスはそれを契機にヨハネ教団から独立して、宣教を始められた。

-マタイ4:12-17「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた・・・その時から、イエスは『悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた』」。

・やがてイエスの評判が獄中のヨハネに届く。ヨハネの使信は、「裁きの時は近づいた、悔改めなければおまえたちは滅ぼされる」というもので、ヨハネが期待したメシアは、不信仰者たちを一掃し、新しい世を来たらせる裁き主だった(3:11-12)。しかし、イエスは罪びとと交わり、貧しい人を憐れみ、病人を癒されている。裁きの時に罪びとは滅ぼされる運命にあるのに、イエスは罪びとの救いのために尽力されている。ヨハネはイエスに疑問を感じ、弟子たちを通して尋ねる。

-マタイ11:3「イザヤの預言した、来るべき方はあなたなのですか。あなたは本当にメシアなのですか」。

・そのヨハネにイエスはイザヤ35:5-6を引用してお答えになった。

-マタイ11:4-5「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。

・イエスは人々に天の父が彼らを愛し、養い、導いて下さることを告げ知らせ、その喜ばしい知らせのしるしとして、病や悪霊に苦しんでいる者を癒された。しかし、人々は理解しなかったし、ヨハネも理解しなかった。人々は自分の期待を込めた勝手なメシア像を作る。民衆は「貧しい暮らしから解放するメシア」を求め、支配者は「ローマから解放してくれるメシア」を求め、ヨハネは「悪に満ちた社会を裁き、正義と公平を実現されるメシア」を求めていた。

 

2.私につまずかない者は幸いである

 

・イエス自身もそのことを知っておられた故に言われる。

-マタイ11:6「私につまずかない人は幸いである」。

・「つまずく」の原語は「スカンダロン」、鳥や獣をとらえるための罠を指し、この言葉から英語「スキャンダル」が生まれている。イエスはユダヤ人にとって不浄とみなされた取税人や罪びとと食事を共にされた。触れてはいけないと禁止されていたらい病人に触れて彼を癒された。当時の人々が「罪びと」として排斥し、「不快だ」と思っていた人々にこそ、救いが必要だと判断され、行動された。人々はそのようなイエスにつまずいた。それは「スキャンダル」だと人々は思った。

・イエスが期待したような方でないことがわかると、民衆はイエスに失望し、離れて行く。それをイエスは次のように言われた。

-マタイ11:17「笛を吹いたのに踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに悲しんでくれなかった」。

・ヨハネが来て「罪を悔い改めよ」と言うと、人々は「ヨハネは人間の罪ばかりを見て、悔い改めよとしか言わない。彼は悪霊につかれている」と批判し(11:18)、イエスが来て「喜べ」と言うと、「断食もせず、罪びとと交わっている。大食漢の大酒飲みで、徴税人や罪びとの仲間だ」と受入れない(11:19)。イエスにつまずいた人々は、やがて「イエスを十字架につけろ」と叫び始める(27:22)。

・弟子たちもまたイエスにつまずきく。イスカリオテのユダはイエスを裏切った弟子として嫌われているが、彼はイエス共同体の財政責任を担っていた人物だ。他の弟子たちと違って、イエスと同じユダ族の出身であり、学識もあり、おそらくイエスから最も信頼されていた。その人物がイエスにつまずいた。ユダは解放者メシアを求め、イエスが無力であることを見て、失望し、つまずいた。人々は自分の期待を込めたメシア像を抱く。人々にとってメシアとは、自分たちの願いをかなえてくれる人のことであった。イエスがそうでないことを知った時、ユダはつまずいた。ほかの弟子たちもつまずいた。だからイエスの十字架時には、弟子たちは皆逃げ去った。

 

3.つまずきを超えて

 

・人々はキリストにつまずいた。キリストが来ても何も変わらない。生活は良くならないし、ローマは相変わらずユダヤを支配し、世の不正や悪は治らない。「本当にこの人はメシアなのか」というつぶやきがそこに生まれる。このつまずきは私たちにもある。信じてバプテスマを受けても、病気が治るわけではないし、苦しい生活が楽になるわけでもない。私たちも心のどこかで疑っている「この人は本当にメシア、救い主なのだろうか」、「この人に自分の人生を委ねても良いのだろうか」と。

・そのような私たちをイエスは招かれる。

-マタイ11:28-30「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」

・私たちは、この招きが、人々の心がイエスから離れ、最大の理解者であったはずのヨハネさえもイエスにつまずいた後でなされたことに注目すべきである。人間的にみれば、四面楚歌の中で、なおもイエスは人々のために、「重荷を負おう」と申し出られておられる。

-聖書教育の学び

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