江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年10月22日祈祷会(マタイ23:1−22、律法学者とファリサイ派の人々を非難する)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.律法学者やファリサイ人の行いは見倣うな

・律法(モーセ五書)は紀元前五世紀に完成するが、それから500年が経ち、時代に応じた律法の解釈が必要になってきた。律法学者は律法の解釈を行う役割を担っていた。ファリサイ派は厳格な律法厳守を人々に求めていた。「モ−セの座につき」というのは、律法学者たちとファリサイ派の人々が会堂を中心に、モ−セの律法を研究し、民衆に律法を教えていたからである。イエスも彼らの言うことの正しさは認められた。しかし彼らは言うだけで実行しない、だから「行いは見倣うな」。
−マタイ23:1−3「イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。『律法学者たちやファリサイ派の人々はモ−セの座についている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。ただし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで実行しないからである』」。
・ファリサイ派は、成文律法と同時に解釈の積み重ねである口伝律法にも同等の権威を認めていた。そのため律法の数は膨大になり、民にとっては背負い切れない重荷になっていた。しかし、彼ら自身は命令するだけで、律法を守ろうとする人々を助けようともしなかった。
―マタイ23:4「『彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうとしない』」。
・イエスが「私の軛は負いやすく、私の荷は軽い」と教えているのは律法の重荷のことであろう。イエスは律法の本質をわきまえる(神を愛し、隣人を愛せ)ことを求め、後は事細かく律法の細部を守れとは言われなかった。
−マタイ11:28-30「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私の元に来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」。
・ファリサイ人は「聖句の入った小箱を常に身につけていた」。衣服の房は「主の命令を思い起こして守り、自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないため」つけるように命じられていた。彼らは自身が律法に忠実であることを民衆に見せるために、聖句の入った箱を大きくし、衣の房を長くした。また彼らは宴会や会堂で上席に座ることを欲し、広場で、先生と呼ばれることを欲した。
−マタイ23:5-7「そのすることは、すべて人に見せるためであり、聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座に、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、「先生」と呼ばれたりすることを好む」。

2.高ぶる者は低くされる

・イエスは律法学者たちを批判すると同時に、弟子たちも戒められる。「あなたたちの間で「先生」「父」「教師」の尊称で呼びあってはならない」と。「父」は「天の父お一人」だけであり、「教師」は「キリスト一人」だけである。あなたがた弟子たちは互いに兄弟と呼びあうべきであると。「教師はキリスト一人」だけとイエスは言われなかっただろうから、この部分はマタイ教会の挿入であろう。教会の中に上下関係の序列が生じている現状をマタイは批判している。
−マタイ23:8−12「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけであとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父お一人だけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。
・プロテスタント教会では牧師は「先生」と呼ばれ、カトリック教会ではローマ法王は「パパ」と呼ばれている。現代の教会もマタイの教会と同じ状況にあるのだろうか。

3.あなたたち偽善者は不幸だ

・イエスは「律法学者とファリサイ人は人々の前で天の国を閉ざす」と非難している。彼らの律法遵守は形式的で内実が伴わず、見せかけだけだった。熱心な改宗者の獲得も熱心さを誇るための手段になっているなら、真の救いに与ることは望むべくもなかった。
−マタイ23:13−15「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人も入らせない。律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ」。

4.ものの見えない案内人

・イエスは「誓ってはならない」と戒められた(マタイ5:33−37)。それは約束した言葉の信頼を失わせないためであった。ファリサイ派は誓いをかける対象で、誓いの価値が左右されると考えていた。イエスはそれを批判される。
−マタイ23:16−17「ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かでものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか」。
・イエスは彼らの教えがいかに形式主義に堕しているかを鋭く批判される。
-マタイ23:18-22「また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のものにかけて誓うのだ。神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。」
・信仰生活をしている者にとって、本章の「偽善」という言葉ほど胸に深く突きる言葉はない。ふつう偽善者は自分が偽善者であることを知っている。しかし、律法学者やファリサイ人の偽善の問題は、彼らが自分たちの偽善に気付いていない点である。だからイエスは反対命題を出されて、人がいかに律法を守ることが出来ないかを示された。誰でも右の頬を打たれたら打ち返すし、敵を憎むなと言われても出来ないのだ。
−マタイ5:38-44「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい・・・あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。
・そこにパウロが指摘する「律法の限界と福音の意味」が見えてくる。人は律法を守ることによっては救われない。なぜならば守ることが出来ないからだ。
−ローマ3:20-22「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」。

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