江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年10月15日祈祷会(マタイ福音書22:23−46、復活についての問答と最も大事な戒め)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.復活についての問答

・当時のユダヤ教の中で、ファリサイ派は復活を信じ、サドカイ派は復活を否定していた。サドカイ派は復活がないことを示すため、『レヴィラート婚』についてイエスへ質問した。レヴィラ−ト婚とは、夫婦の間に子供がないまま夫が死亡した場合、夫の未婚の兄弟が、未亡人と結婚して子をもうける当時の風習である。レヴィラ−ト婚の目的は家の存続のためで、任意ではなく半ば強制だった。
−マタイ22:23−27「その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた『先生、モ−セは言っています。ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならないと。さて、私たちのところに、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後に女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです』」。
・サドカイ派の人々の質問「復活の時、一体彼女はだれの妻になるのか」は、復活がないとすれば何の問題もないが、あるとすれば彼女はどの兄弟の妻かが問題になる。彼らは巧みな質問でイエスに罠をしかけようとしたが、彼らの論理には基本的な欠陥があった。彼らは復活後の人間と現世の人間は、同じ肉体を持つ人間であるという前提に立っていた。しかしイエスはそれを否定された。神の国では、現世のような結婚など有り得ない。イエスはファリサイ人に対し、「あなたたちは、聖書も神の力も信じないから、そういうことを言うのだ。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのである」と、聖書を引用して反論した。ファリサイ派の教えでもなく、サドカイ派の主張でもない、イエスの復活と神の力についての教えに群衆は驚いた。聞いていた群衆にとって、イエスの教えは清新だったのである。
−マタイ22:29−33「イエスはお答えになった。『あなたたちは聖書も神の力も知らないから思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちについて言われた言葉を読んだことがないのか。私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるとあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である』。群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた」。
・死んだ後、どのような体で復活するのか、誰も知らない。聖書も明言しない。日本では死ねば火葬されるが、欧米の主流は火葬ではなく土葬である。キリスト教徒は死後の復活を信じ、「遺体を焼く=復活できない」という考え方がある為、土葬が主流となっている。フランスでは伝統的なカトリック信者が多く、遺体を焼くことに抵抗がある人が多いため、火葬率は30%と低いが、イギリスは異例で火葬率が73%と高い。合理的と言われるプロテスタントが多いためと土地不足の問題である。アメリカもプロテスタントは多いが、広い土地があるため、火葬率は40%とイギリスと比較すると低い。 イエスは私たちに「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と教えられた。わからないことは主に委ねていけば良いのではないか。

2.最も重要な掟

・サドカイ派がイエスに言い込められたと聞いたファリサイ派の律法学者が、イエスを試そうと近付いた。律法学者は専門家らしく「律法の中でどの掟が重要か」とイエスに質問した。当時ユダヤの律法はなすべき命令が248、禁止命令が365合計613もあり、「どれが最も大事か」に答えるのは難しいと思われた。
−マタイ22:34−36「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込めたと聞き、集まって来た。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか』」。
・イエスは躊躇することなく、重要な第一の教えとして「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽して、あなたの神を愛しなさい。」(申命記4:6)をあげ、続いてイエスは第二の教え「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(レビ記19:18b)をあげた。なぜ聞かれていない、第二の教えをあげたのか。それは第二の教えを守らない限り、第一の教えを守ることにならないからだ。神を愛することは隣人を愛することなのである。
−マタイ22:37−40「イエスは言われた。『心を尽し、精神を尽し、思いを尽して、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。隣人を自分と同じように愛しなさい。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている』」。
・このイエスの教えはパウロに継承されている。キリスト教徒にとって隣人を愛する事こそ信仰の中核である。-ローマ13:8-10「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」。

3.ダビデの子についての問答

・メシアの称号として当時用いられたのが、「ダビデの子」である。ダビデの後裔から、いつの日か偉大な王が現れ、イスラエル民族の敵を滅ぼし、かつての栄光を取り戻してくれるだろうという、期待が込められていた。イエスは、「メシアは誰の子か」とファリサイ人に質問した。彼らは言い伝え通り「ダビデの子です」と答えた。
−マタイ22:41−42「ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった『あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか』。彼らが『ダビデの子です』と言う」。
・ファリサイ人の答えを聞いたイエスは詩編110:1を引用して反論した。古代ユダヤ社会の秩序では、子が父に対し主と呼ぶことがあっても、父が子を主と呼ぶことは絶対にない。イエスが彼らに、この質問をしたのは、イエスこそメシアであることを、彼らに知らしめるためであった。イエスの筋の通った論理に対し、彼らはもはや何の反論もできず、その日以後イエスに強いて質問する者はなかった。
−マタイ23:43−46「イエスは言われた。『では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。「主は私にお告げになった。私の右の座に着きなさい。私があなたの敵を、あなたの足元に屈服させるときまでと」。このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか』。これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった」。
・初代教会は、イエスが「ダビデの子」故にメシアであると信じるとともに、それ以上にイエスが復活されたことをメシアのしるしとする。パウロの伝承した告白がローマ書に残されている。
-ローマ 1:2-4「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、私たちの主イエス・キリストです」。

4.愛の教えで乗り越えた人生

・イエスは、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽して、あなたの神を愛しなさい」と教え、また「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と教えた。神を愛し、隣人を愛するために人が乗り越えねばならぬ山が、憎しみである。他人に対する憎しみ、自分に対する呪いをいだいたまま、隣人愛は有り得ない。ましてや自分自身の存在を感謝できないままの隣人愛は有り得ない。どのような人生であれ、神により与えられた生に感謝して生きることが、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という教えを生きることになるのである。
・「瞬きの詩人」水野源三さんは1946年、赤痢の高熱で脳性小児麻痺になり、手足を動かせず、話すこともだきなくなった。九歳の時だった。水野宅を訪問した牧師から贈られた聖書とラジオのキリスト教放送を聞き、源三さんは信仰を持つようになり、源三さんの人生は変わった。源三さんは四十七歳で天に召されるまで、心に満ちあふれる信仰を詩や短歌で残した。源三さんは母の指さす「あいうえお五十音表」を瞬きの合図で答え、詩作をしたので、「瞬きの詩人」と呼ばれた。源三さんが自らの不自由を乗り越え、感謝で生きることができたのは、自分の存在を否定せず、神の愛を信じることができたからである。
−水野源三・十字架の愛「主イエスが歩まれた道は、昔も今も誰も歩いたことがない。主イエスが歩まれた道は、私を誠の道に導くため、歩まれた十字架の道。主イエスが語られた言葉は、昔も今も誰も語ったことがない、私を罪の中から救うため、語られた十字架の言葉。主イエスが示された言葉は、昔も今も誰も示したことがない。主イエスが示された愛は、私の心を満たすため、示された十字架の愛」。

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