江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年3月11日祈祷会(マルコ11:1-19、イエスのエルサレム入城と宮清め)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.イエスのエルサレム入城

・イエスたち一行はエルサレム近郊、オリーブ山のふもとにある小村に差し掛かった。イエスは弟子たちに村から子ろばを連れてきなさいと言われた。イエスは子ろばを事前に準備されていたのかもしれない。
-マルコ11:1-2「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた『向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい』」。
・メシアは馬ではなく子ろばに乗って入城される。馬は富と力の象徴、ろばは貧しさとへりくだりの象徴だ。
-ゼカリヤ9:9「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って」。
・イエスは子ろばに乗ってエルサレムに入城される。民衆は棕櫚の枝を敷いて歓呼した。棕櫚の枝を敷くのは王を迎えるしるしだ。受難週は、皮肉にも、人々が歓呼してイエスを迎える「棕櫚の主日」から始まる。
-マルコ11:7-9「二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように』」。
・人々はイエスを解放者と期待して歓呼した。しかしイエスがエルサレムをローマ支配から解放する事も無く捕らえられると、民衆は失望し、「十字架につけろ」と叫びだす。人が求めるメシアは自分を救ってくれるメシアだ。
-マルコ15:13-14「群衆はまた叫んだ『十字架につけろ』。ピラトは言った『いったいどんな悪事を働いたというのか』。群衆はますます激しく『十字架につけろ』と叫び立てた」。

2.イエスの宮清め

・一行は最初の夜をベタニアで過ごされ、翌朝エルサレムに向かわれる。途中、イエスは葉が茂っているのに実をつけないいちじくを見てそれを呪われる。マルコはこの出来事を神殿清めと関連付ける。外見は立派であっても、そこでは神が崇められているのではなく、信仰が実を結んでいないことを、実のならないいちじくに象徴している。
-マルコ11:12-14「翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。・・・イエスはその木に向かって、『今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように』と言われた。弟子たちはこれを聞いていた」。
・イエスは神殿に入られた。中庭では両替商が銭勘定し、犠牲の羊や鳩を売る商人たちの声がやかましかった。イエスは憤られて両替商の台や鳩を売る者の腰掛をひっくり返された。見た事もないイエスの怒りである。
-マルコ11:15-16「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった」。
・両替は流通していたローマ貨幣等を献金用のユダヤ貨幣に換えるためのものであり、犠牲としてささげる羊や鳩が売られていた。礼拝は形骸化し、神殿が金儲けの場になっていた。
-マルコ11:17「そして、人々に教えて言われた『こう書いてあるではないか。私の家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった』」。
・この怒りは預言者の怒りである。エレミヤもかつて同じような怒りを示して神殿崩壊を預言し、祭司たちに捕らえられて殺されようとしている。イエスもまたこの行為を通して「涜神罪」に問われていく。
-エレミヤ7:10-11「私の名によって呼ばれるこの神殿に来て私の前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。私の名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。その通り、私にもそう見える、と主は言われる」。
・エレミヤが迫害されたように、神殿批判をされたイエスにも危険が及ぶ。祭司たちはイエス殺害を企画する。
-マルコ11:18「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った」。
・宮清めの記事は私たちの礼拝のあり方を問う「主に出会う為に集められるのか、自分の都合で集まるのか」。私たちが仕事や学校の用事で主日礼拝を休むのはルカ14章の人々と同じだ。その時、教会は祈りの家にならない。
-ルカ14:18-20「最初の人は『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。
ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った」。
・私たちが教会成長を「会員増加と献金収入の増大」と考える時、私たちもまたエルサレム神殿と同じになる。教会はあくまでも宣教と祈りのための拠点であり、「集められ、派遣される」場であり、自己目的化してはいけない。

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