江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年2月4日祈祷会(マルコ8:22-38、受難のメシア)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.ペテロの偽りの信仰告白

・イエスはベトサイドで盲人を癒された。盲人の癒しは「神の国」到来のしるしだ(参照:マタイ11:5)。
−マルコ8:22-24「人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて『何か見えるか』とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります』」。
・ここでは盲人の癒しが2段階で為されている。最初はぼんやりと、二度目は鮮やかに見える。マルコは弟子たちがイエスを見ていながら、真のイエスが見えていない(マルコ8:18)ことを重ねて描いている。
−マルコ8:25「イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった」。
・弟子たちが「ぼんやりとしかみていない」ことが、イエスの受難予告で明らかになる。ペテロはイエスを「メシア」と告白するが、イエスが受難予告をされると「主よ、とんでもないことです」とイエスを諌める。出来事はイエスの「人々は私を何者だと言っているのか」との質問で始まる。
−マルコ8:27-28「イエスは・・・弟子たちに、『人々は、私のことを何者だと言っているか』と言われた。弟子たちは言った『洗礼者ヨハネだと言っています。ほかに、エリヤだと言う人も、預言者の一人だと言う人もいます』」。
・イエスは弟子たちに尋ねられる「それではあなた方は私を何者だと言うのか」。ペテロが弟子を代表して答える。
−マルコ8:29「イエスがお尋ねになった『それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか』。ペトロが答えた『あなたは、メシアです』」。
・マタイ福音書ではイエスはペテロの言葉に応えて「あなたの上に教会を立てる」とする(マタイ16:17-19)。しかしイエスの生前に教会は成立していない。この言葉は後の教会の信仰告白が表明されているのであり、イエスはペテロの告白が不十分と理解されていた。だから誤解を避けるために、そのことを「誰にも言うな」と言われた。
−マルコ8:30「するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」。

2.受難のメシア

・イエスは弟子たちにご自分の使命、これから起こる受難を話される。彼らには理解して欲しいと思われたからだ。
−マルコ8:31-32a「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」。
・ここで弟子たちの無理解が露呈される。ペテロはイエスに対して「とんでもないことです。そんなことがあるはずありません」と諌める。メシアは栄光を受けるべきであって、だから自分たちも従ってきたのだと。
−マルコ8:32b「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」。
・イエスはペテロに対して「サタンよ、引き下がれ」と激しい言葉を浴びせられる。他の弟子たちも同罪だ。
−マルコ8:33「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」。
・イエスは従うあり方を教えられる。人々が宗教に求めるものは「自己の救いだ」。しかし自己救済の到達点は自己義認であり、それは救いをもたらさない。何故なら命の支配権は私たちではなく神にあるからだ。神の前に義であることが救いであり、それはイエスのように、自己を捨て他者のために生きる存在になることだ。
−マルコ8:34-37「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた『私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか』」。
・マルコはイエスの言葉を用いて、ユダヤ教の迫害とローマ帝国の弾圧に揺れ動く教会の人々に語る。「真理はイエスにある。イエスから離れるな」と。迫害の無い時代の、自己満足した教会はこの言葉をどのように聞くのか。
−マルコ8:38「神に背いたこの罪深い時代に、私と私の言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」。
・自己実現は自己否定から来る。自分の義を追い求めたユダヤ人は救いから漏れた。修行を積むことによって解脱(救済)を求める教えや、禁欲を奨励する修道院的あり方も同じ矛盾の中にあるのではないか。
−ローマ9:31-32「イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです」。

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