1.二度目のパンの奇跡
・マルコは5000人の給食を述べた後で(6:30-44)、今度は4000人の給食の物語を紹介する。多くの解釈者は前の奇跡の伝承が二つの物語に形成されたとみるが、マルコは別の奇跡がなされたと主張する(マタイも同様に理解して掲載するが、ルカは同じ物語と見て二度目の給食記事を省略する)。
−マルコ8:1-3「そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『群衆がかわいそうだ。もう三日も私と一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる』」。
・物語は異邦の地での癒しに続く。このパンの奇跡は異邦人の地で為された別の物語だとマルコは主張している。6:34でイエスは群集を「深く憐れまれ(スプラングニゾマイ)」奇跡を起こされている。8:2では「かわいそうだ(スプラングニゾマイ)」と思い、奇跡を起こされている。「スプランクノン(内臓)が痛むほど動かされた」、イエスはユダヤ人同様、異邦人も憐れまれたとマルコは主張する。しかし弟子たちは異邦人ゆえに救済に熱心ではない。-マルコ8:4-5「弟子たちは答えた『こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか』。イエスが『パンは幾つあるか』とお尋ねになると、弟子たちは『七つあります』と言った」。
・イエスは感謝して(ユーカリスティン)、パンを裂き人々に配られた。この「感謝して」が聖餐式(ユーカリスティア)の語源になっている。聖餐式の起源を荒野の会食に求めれば、全ての人への(オープンの)聖餐式になろう。
-マルコ8:6-7「そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた」。
・七つのパンが4000人を養い、残ったパンくずは七かごであった。
-マルコ8:8-9「人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた」。
2.パリサイ人のパン種とは何か
・イエスはその地を離れ、ガリラヤに戻られた。そこにパリサイ人が来て、「天からのしるし」を求めた。異邦人は癒しの業やパンの奇跡を見て神を賛美したが(7:37)、ユダヤ人は「更なるしるし」を求める。
-マルコ8:10-13「それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。イエスは、心の中で深く嘆いて言われた『どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない』。そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた」。
・舟の中でイエスは「パリサイのパン種とヘロデのパン種に気をつけなさい」と言われた。ヘロデは洗礼者ヨハネの使信を拒絶し、パリサイ人はイエスの使信を拒絶した。イエスは、「聞く耳を持たない人々」がいることに気をつけるように言われた。しかし弟子たちには意味がわからない。
-マルコ8:14-16「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。そのとき、イエスは『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい』と戒められた。弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた」。
・イエスは弟子たちの無理解を見て嘆息される。前回の給食では12かごが残り、今回の給食では7かごが残った。ユダヤ人には12(イスラエル12部族)の、異邦人には7つ(完全数、全ての人)の食物が準備されている。ユダヤ人であっても拒絶する者には救いはなく、異邦人であっても受入れる者は恵みがあることをイエスは言われた。
-マルコ8:17-21「イエスはそれに気づいて言われた『なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか・・・私が五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか』。弟子たちは『十二です』と言った。『七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか』。『七つです』と言うと、イエスは『まだ悟らないのか』と言われた」。
・一つのパン(イエスの裂かれた体)があれば皆が十分に食べることが出来る。しかしユダヤ人は異邦人と食卓を共にしないし、白人と黒人は別れて礼拝し、日本人も韓国人と礼拝を共にしない。一つの体になりえない現実がある。
-コリント10:16-17「私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。