江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年1月21日祈祷会(マルコ7:24-37、異邦人の救い)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.ツロの女の出会い

・イエスは休養をとるためにツロ(ティルス)の地に行かれた。ガリラヤでは人々が押し寄せ、休みが取れなかったからだ。しかしそこにも人々が癒しを求めてきた。イエスの評判は異邦人の地にも聞こえていた。
-マルコ7:24「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった」。
・イエスを訪問したのはギリシア人の女だった。彼女の娘が悪霊に苦しめられていて、彼女はその癒しを求めて来た。今日で言えば「癲癇」等の病気にかかっていたのだろうか。
-マルコ7:25-26「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出して下さいと頼んだ」。
・当初イエスは異邦人に癒しを行うことをためらわれた。「子犬にあげてはいけない」、犬は異邦人の蔑称だ。
-マルコ7:27「イエスは言われた『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない』」。
・女はこの恥辱を怒らず、謙遜に受入れる「食卓の下の子犬もテーブルから落ちたパンくずは拾います」。イエスは女のひたむきな信仰に感動され、女の娘を癒された。
-マルコ7:28-30「ところが、女は答えて言った『主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます』。そこで、イエスは言われた『それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった』。女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた」。
・ユダヤ人のマタイはこの物語を紹介する。マタイはイエスが、ご自分は「イスラエルの失われた羊の所に派遣されている」と自覚されていたから、このように言われたと解釈した
-マタイ15:24「イエスは『私は、イスラエルの家の失われた羊の所にしか遣わされていない』とお答えになった」。
・ギリシア人のルカはこの物語を自分の福音書に取り入れない。イエスが異邦人を差別されたと思ったのだろうか。ルカはユダヤ人の拒絶によって救いが異邦人に及んだと理解する。人はそれぞれの場で聖書を読んでいく。
-ルカ4:24-27「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ・・・エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」

2.デカポリスでの出会い

・イエスはツロを去り、シドンを経て、デカポリスの地に来られた。先に悪霊が豚の群れに入り2千匹の群れが溺死した土地だ。豚を飼う、汚れた土地だとユダヤ人は理解し、交わらなかった土地にイエスは行かれた。
-マルコ7:31「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」。
・人々はイエスの下に聾唖の人を連れてきて、癒してくださるように願った。
-マルコ7:32-35「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」。
・共観福音書には115の癒しの記事がある。イエスの活動の中心の一つは癒しだった。しかし後の教会はイエスの癒しを軽視する。「エファタ」と言えば聾が治る。そのような魔術的な側面が忌避されたのだろう。私たちは癒しを奇跡と言う側面ではなく、イエスがどのような思いでそれを為されたかを見る必要がある。
-マタイ8:16-17「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった『彼は私たちの患いを負い、私たちの病を担った』」。
・イエスが癒されたのは、多くの場合、当時の社会において罪人、穢れた者とされていた人々であった。その人々に対し、イエスは「深く憐れみ」、「手を差し伸べてその人に触れ」、「清くなれ」と宣言し、癒した(マルコ1:40-45)。一人息子の死を悲しむ母親を「憐れに思い」、「棺に手を触れ」、彼を生き返らせた(ルカ7:11-17)。「癒し」の行為は、禁止されていた安息日にも行われた(マルコ3:1-6)。イエスは自らが痛む(社会的制裁を受ける)ことにより、病む者たちの痛みを共有された。このような癒しを教会はもっと学ぶ必要があるのではないか。

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