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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

聖書教育の学び

2022年1月30日聖書教育の学び(2017年5月10日祈祷会、マルコ福音書7:24-37、異邦人の信仰)

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1.シリア・フェニキアの女の信仰

 

・イエスは異邦人の住むティルス地方に行かれた。イエスは休息を求めてその地に向かわれたが、そこにも癒しを求める人が押し寄せて来た。イエスの評判は異邦人の地にも聞こえていた。

-マルコ7:24「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方へ行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。」

・イエスのもとに、悪霊に憑かれた娘を持つギリシア人の女が現れ、足元にひれ伏し、「娘の悪霊を払っていただきたい」と願い出た。

-マルコ7:25-26「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足元にひれ伏した。女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」

・イエスは女の願いを退けられる。「子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない」、子供は同胞ユダヤ人を指し、犬は異邦人の蔑称だ。イエスは「同胞の癒しをまず優先する」と断られたのである。

-マルコ7:27「イエスは言われた。『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。』」

・女はイエスの言葉を受けて、「食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます」とあくまでも娘の癒しを求めた。イエスは女の熱心さに打たれ、子供を癒された。

-マルコ7:28-29「ところが女は答えて言った。『主よ、しかし、食卓の下の子犬も子供のパン屑はいただきます。』そこで、イエスは言われた。『それほど言うならよろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」

・ユダヤ人マタイはマルコの物語を自分の福音書に書き込んだ。マタイはイエスが、ご自分は「イスラエルの失われた羊のところに派遣されている」と自覚されていたから、このように言われたと解釈した

-マタイ15:24「イエスは『私は、イスラエルの家の失われた羊の所にしか遣わされていない』とお答えになった」。

・ギリシア人ルカはこの物語を自分の福音書に取り入れない。イエスが異邦人を差別されたと思ったのだろうか。ルカはユダヤ人の拒絶によって救いが異邦人に及んだと理解する。人はそれぞれの立場で聖書を読んでいく。

-ルカ4:24-27「預言者は、自分の故郷では歓迎されない・・・エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こった時、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」

 

2.私たちはこの物語をどう聞くのか

 

・心の病に苦しむ娘を持った母親は手記に書く「聖書にイエス様が病人や悪霊に取りつかれている人たちをおいやしになった事が出てきます。その度に思うのは娘のことです。9歳の一人娘は知的障害で自閉症です。もしその当時、私が『イエスという救い主が現れて病人を治している』と聞けば、娘を連れてどんなに遠くても行ったことでしょう。『何とか治してほしい。どうぞ治してください』と祈っていると、時々虚しくなります。障害の重さばかり目に付いてしまい、絶望的になります」。心の病を持つ子がいる家族の苦悩は重い。全国精神障害者家族会がまとめた「心の病-家族の体験」という本を読むと、多くの苦しみの言葉がある。ある母親は、精神分裂病で入院した娘から「私の人生を返せ」と言われて泣き崩れた。夫から「娘がこうなったのはお前のせいだ」といわれて、この子を殺して自分も死のうと考えた人もいる。

・しかし、多くの経験者は言う「何故ですかと叫び続ける時、苦しみの大きさに押し潰されてしまう。解決が見えないからだ。しかし、何をすべきかと考えた時に、この状態を受入れられるようになる」。フェニキアの女も思っただろう「私は何故こんなに苦しまなければいけないのか」。彼女はイエスと対話するうちに、神は私たちの不幸を願っておられるのではなく、幸いを願っておられることに気がついた。だから彼女は言った「子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」。神は私たちが異邦人という理由で見捨てられるような方ではない。神は私たちを憐れんで下さる。そう信じた。この信仰をイエスはほめられた。

 

3.デカポリスでの癒し

 

・イエスはティルス地方を出て、シドン、デカポリスと異邦の地を巡り、ガリラヤ湖の対岸に来られた。そこに、村人が、耳が聞こえず、舌の不自由な人を連れて来て、イエスに癒しを願った。

―マルコ7:31-32「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。」

・イエスは聴覚と言語の機能を失っている人を、騒がしい群衆から引き離し、患者の両耳に指を入れ、唾で患者の舌を濡らし、天を仰いで祈り、「エファタ(開け)」と叫ばれた。患者は耳が聞こえ、話せるようになった。患者を連れて来た人々は驚いた。

―マルコ7:33-35「そこで、イエスはその人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけて、その舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。すると、たちまち、耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」

・マルコ福音書にはアラム語をそのまま残したいくつかの記事がある。マルコ7章では「エッファタ=開け」という言葉が用いられ、マルコ5章では「タリタ・クム=少女よ、起きなさい」という言葉が用いられている。その場にいた弟子たちは、イエスから発せられた言葉が強く刻まれ、忘れることができなかった。そして目撃者の一人ペテロが出来事をマルコに伝え、マルコも感銘を受けて、アラム語の発音をそのまま表記して、自分の福音書に書き込んでいったと思われる。「エッファタ=開け」も同様であろう。イエスの肉声がここに記録されている。

・人々は驚き、イエスの癒しを言い広めた。

―マルコ7:36-37「イエスは人々に、だれにもこのことを話していけないと口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。『この方のなさったことはすべてすばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。』」

・「神の国は既に来ている」とイエスは言われた。私たちが「エファタ」と言っても耳の悪い人の耳を開けることは出来ないし、「タリタ・クミ」と言っても死んだ人が生き返るわけではない。しかし、私たちは私たち自身の「聖なる者との出会い」体験を通して、それが出来る方がおられることを知っている。この物語では「村人たちは他者とコミュニケートできない人に心を痛め、何とか治らないものかと願い、その人をイエスの前に連れてきた」。村人たちの信仰が障害の人をイエスに出会わせ、イエスのうめきをもたらし、このうめきが、この人を交わりに中に戻した。私たちには出来ないことでも神には出来る、その信仰を持って私たちは人々を教会に導き、イエスとの出会いを祈る。

・共観福音書には115の癒しの記事がある。イエスの活動の中心は癒しだった。しかし後の教会はイエスの癒しを軽視する。「エファタ」と言えば聾が治る、そのような魔術的な側面が忌避されたのだろう。私たちは癒しを奇跡という側面ではなく、イエスがどのような思いでそれを為されたかを見る必要がある。

-マタイ8:16-17「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった『彼は私たちの患いを負い、私たちの病を担った』」。

・イエスが癒されたのは、多くの場合、当時の社会において罪人、穢れた者とされていた人々であった。その人々に対し、イエスは「深く憐れみ」、「手を差し伸べてその人に触れ」、「清くなれ」と宣言し、癒した(マルコ1:40-45)。一人息子の死を悲しむ母親を「憐れに思い」、「棺に手を触れ」、彼を生き返らせた(ルカ7:11-17)。「癒し」の行為は、禁止されていた安息日にも行われた(マルコ3:1-6)。イエスは自らが痛む(社会的制裁を受ける)ことにより、病む者たちの痛みを共有された。このような癒しを教会はもっと学ぶ必要があるのではないか。

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