江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年1月14日祈祷会(マルコ7:1-23、人を汚すものは何か)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.神の戒めを人に戒めに変える人々

・イエスは群集が「飼う者のいない羊」のようであることを嘆かれた。社会の指導者であるパリサイ人や律法学者が神の戒めを人の戒めに変えてしまい、民を憐れむ心を失っていたからだ。エルサレムから来た人々はその象徴だ。
-マルコ7:1-5「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た・・・そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた『なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか』」。
・汚れた手=不浄の手の意味だ。パリサイ人たちは外から帰ると必ず手を洗った。異教徒に触れて汚れたかもしれないからだ。彼らはまた厳格な食物禁止規定をも守り、守らない人々を「不信仰」と非難していた。
-マルコ7:3-4「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」。
・イエスは彼らの偽善を批判される。彼らは神の戒めを社会の法律や祭儀にまで拡大して、人々を束縛し、苦しめるものに変えていた。神は人を愛するために戒めを与えられたのに、人は他者を裁くためにその戒めを用いる。
-マルコ7:6-8「イエスは言われた『イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。“この民は口先では私を敬うが、その心は私から遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしく私をあがめている”。あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている』」。
・神が「父母を敬え」と教えられる時、文字通り父母を養えとの意味だ。当時のユダヤ人たちは、「これはコルバン(奉げもの)だ」と宣言し、必要なものを父母に与えない者たちがいて、パリサイ人もそれを黙認していた。「コルバン」、口先だけで神を敬い、その実神が命じられたことをおろそかにする象徴がコルバンだ。
-マルコ7:10-13「モーセは『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている『もし、だれかが父または母に対して、あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物ですと言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」。

2.人を汚すものとは何か

・パリサイ人は外から入るものが人を汚すとして、多くの食物禁止規定を作った。ユダヤ人は今でも豚肉を食べないし、甲殻類も食べない。しかし、イエスは人を汚すものは外からではなく、内から来るといわれる。
-マルコ7:14-15「イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた『皆、私の言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである』」。
・人を汚すものは心の中から出る悪しき思いだ。食物は心に中には入らない、それが人を汚すのではない。
-マルコ7:19「それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる」。
・イエスは人の心にある思いが他者を汚し、同時に自分を汚していくと指摘される。
-マルコ7:20-23「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」。
・ヤコブは教会の中でも人を汚す言葉が話されていると戒める。舌は悪の権化だ。
-ヤコブ3:6-10「舌は火です。舌は不義の世界です。私たちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます・・・舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです」。
・自分を正しいと思う者は、必ずそうでない人々を見出し、攻撃し、そのことによって自分の正しさを根拠付ける。教会の中にも裁きがあり、エルサレムから来た人々は必ずいる。使徒言行録の伝えるエルサレム教会はまるで律法学者のようだ。私たちは自分がそうならないように留意すべきだ。
-使徒11:2-3「ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは彼を非難して、『あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした』と言った」。

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