1.人のはかなさの中で主を賛美する
・詩篇144編の表題は「ダビデの歌」とあるが、実際はバビロン捕囚後に歌われた「王の詩篇」とされる。
-144:1-2「ダビデの詩。主をたたえよ、私の岩を、私の手に闘うすべを、指に戦いするすべを教えてくださる方を、私の支え、私の砦、砦の塔、私の逃れ場、私の盾、避けどころ、諸国の民を私に服従させてくださる方を。」
・本詩の下書きとなったのは詩篇18編と言われる。冒頭の句は詩篇144編と同じだ。
-詩篇18:2-3「主よ、私の力よ、私はあなたを慕う。主は私の岩、砦、逃れ場、私の神、大岩、避けどころ、私の盾、救いの角、砦の塔」。
・詩篇18編は末尾で「ダビデとその子孫を、とこしえまで慈しみのうちにおかれる方」と讃美する。ダビデ王朝が滅び、今はペルシャやシリア等の外国支配下にある詩人が、ダビデ王朝の復活を祈念した歌であろう。そうであれば詩篇144編もまた捕囚後の歌と思われる。
-詩篇18:50-51「主よ、国々の中で、私はあなたに感謝をささげ、御名をほめ歌う。主は勝利を与えて王を大いなる者とし、油注がれた人を、ダビデとその子孫を、とこしえまで慈しみのうちにおかれる」。
・詩篇144編は3-4節で、「人間は息に似たもの、彼の日々は消え去る影」と、人間存在のはかなさを歌う。
-144:3-4「主よ、人間とは何ものなのでしょう。あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう、あなたが思いやってくださるとは。人間は息に似たもの、彼の日々は消え去る影。」
・同じ人間存在のはかなさを歌うのが詩篇49編だ。詩篇は「肉体としての人間の限界を見つめる」。
-詩編49:10-13「人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。人が見ることは、知恵ある者も死に、無知な者、愚かな者と滅び、財宝を他人に遺さねばならないということ。自分の名を付けた地所を持っていても、その土の底だけが彼らのとこしえの家、代々に、彼らが住まう所。人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい」。
・詩篇144編の中には、コヘレトに見る虚無感が漂っている。やはり紀元前3世頃の知恵文学の影響を大きく受けている。
-コヘレト5:14-16「人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない。これまた、大いに不幸なことだ。来た時と同じように、行かざるをえない。風を追って労苦して、何になろうか。その一生の間、食べることさえ闇の中。悩み、患い、怒りは尽きない」。
2.異邦人からの救いを求める詩人
・第三段落(5-11節)は異邦人支配からの解放を願う。主がモ-セに顕れた時、天地を揺るがす稲妻と煙を伴って、シナイ山に降られたように、威力ある神の顕現を見させてくださいと詩人は祈る。
-144:5-6「主よ、天を傾けて降り、山々に触れ、これに煙を上げさせてください。飛び交う稲妻、うなりを上げる矢を放ってください。」
・詩人たちは異邦人に支配され、異邦の子らの攻撃にさらされている。「ダビデの子孫である私たちをそこから救い出して下さい」と詩人は祈る。ユダヤ教が迫害されたシリア統治下の苦難を述べているのかもしれない。
-144:7-11「高い天から御手を遣わして私を解き放ち、大水から、異邦人の手から助け出してください。彼らの口は虚しいことを語り、彼らの右の手は欺きを行う右の手です。神よ、あなたに向かって新しい歌を歌い、十弦の琴を持ってほめ歌をうたいます。あなたは王たちを救い、僕ダビデを災いの剣から解き放ってくださいます。私を解き放ち、異邦人の手から助け出してください。彼らの口はむなしいことを語り、彼らの右の手は欺きを行う右の手です」。
・12-14節は主の祝福を待ち望む。ヘブル語のシャロ-ムは平和と繁栄を意味する。国や民族の繁栄には後継者が育つことが必要だ。また幾千幾万の肥えた家畜は彼らの財産で、これが繁栄を支える。「都の広場に破れも捕囚の叫びもない」とは平和を表す。
-144:12-14「私たちの息子は皆、幼い時から大事に育てられた苗木。娘は皆、宮殿の飾りにも似た、色とりどりの彫り物。私たちの倉は、さまざまな穀物で満たされている。羊の群れ野に、幾千幾万を数え、牛はすべて肥えている。私たちの都の広場には、破れも捕囚も叫び声もない。」
・15節は祝福の歌だ。この最後の詩、「いかに幸いなことか、主を神といただく民は」は、人の幸福の真の意味を示唆している。
-144:15「いかに幸いなことか、このような民は、いかに幸いなことか、このような民は、いかに幸いなことか、主を神といただく民は。」
・エレミヤは主を神といただく者の幸いを述べる。
-エレミヤ9:22-23「主はこう言われる。知恵ある者はその知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。冨ある者は、その冨を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めて私を知ることを。私こそこの地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事を私は喜ぶ、と主は言われる」。
3.詩篇144編の黙想(人のはかなさの中で主を求める)
・人生を草や花、陰や息に例えた表現は、捕囚期以降の文書に現れると注解者月本昭男は述べる。その代表的なものが第二イザヤ書である。
-イザヤ40:7-8「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」。
・そして、第二イザヤの思想が詩篇だけでなくヨブ記やコヘレト書などの知恵文学に引き継がれたという。
-ヨブ記14:12「人は女から生まれ、人生は短く、苦しみは絶えない。花のように咲き出ては、しおれ、影のように移ろい、永らえることはない」。
-コヘレト6:12「短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない」。
・しかし例え人生が短く、空しいものであっても、人が神を求める時、その空しさは報われると詩篇8編は語る。卑小な存在である私たちにも神の手が働いている驚きを詩人は歌う。
-詩篇8:4-7「あなたの天を、あなたの指の業を、私は仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるようにその足もとに置かれました」。