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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年3月23日祈祷会(詩編143編「御前に正しい者は誰もいません」)

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・詩篇143編はカトリック教会の定めた「悔い改めの7詩編」の一つである。嘆き訴える祈りから詩は始まる。詩人は生ある者で罪の無い者はいないのだから、どうか、裁かないでくださいと神に懇願している。この神に赦しを乞う詩文から、「悔い改めの7詩編」と呼ばれた。

-143:1-2「賛歌。ダビデの詩。主よ、私の祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。あなたのまこと、恵みの御業によって、私に答えてください。あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は、命ある者の中にはいません。」

・詩篇の前書きには「ダビデの歌」とあり、七十人訳は「息子が彼に迫った時」とする。ダビデの息子アブサロムは父ダビデに反旗を起こした。アブサロムは周到な準備のうえで挙兵、イスラエルとユダヤの民はアブサロムを支持し、ダビデを支えたのは、わずかにクレタ人、ペレティ人、ガト人だけだった。ダビデは追い詰められた。

-143:3-4「敵は私の魂に押し迫り、私の命を踏みにじり、とこしえの死者と共に、闇に閉ざされた国に住まわせようとします。私の霊はなえ果て、心は胸の中で挫けます。」

・当初アブサロムの反乱は成功するかにみえたが、ダビデはヨルダン川の向こう岸へ逃げて兵を整え、反撃に転じ勝利した。アブサロムは敗走の途中、長い髪が木の枝にからまり、宙吊りになったところをダビデの部下に殺された。自分に対して反旗を翻したにも関わらず、ダビデはアブサロムの死に慟哭した。このダビデの悲しみと罪の思いが詩篇143編にあると考えた編集者は、この詩篇をダビデの作とした。

-サムエル記下19:1「ダビデは身を震わせ、城門の上の部屋に上って泣いた。彼は上りながらこう言った。『私の息子アブサロムよ、私の息子よ。私の息子アブサロムよ、私がお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、私の息子よ、私の息子よ。』」

・苦難の中で詩人は、「いにしえの日々」を回顧し、御手の業に感謝し、救いを嘆願する。

-143:5-6「私はいにしえの日々を思い起こし、あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し、御手の業を思いめぐらします。あなたに向かって両手を広げ、乾いた大地のような私の魂を、あなたに向けます。」

・詩人の霊は疲れ衰えて、一刻も早くと神に答えを迫る。

-143:7-8「主よ、早く答えてください、私の霊は絶え入りそうです。御顔を私に隠さないでください。私はさながら墓穴に下るものです。朝にはどうか、聞かせてください、あなたの慈しみについて。あなたに私は依り頼みます。行くべき道教えてください、あなたに私の魂は憧れているのです。」

・アブサロム反乱後もダビデの苦労は続く。ベニヤミン人ビクリの息子シエバが反乱を起こした。ダビデにとってシエバは、アブサロム以上に危険だった。イスラエルの人々はダビデを離れてシエバに従った(サムエル記下20章)。ダビデは平安を祈る。

-143:9-10「主よ、敵から私を助け出してください。御もとに私は隠れます。御旨を行うすべを教えてください。あなたは私の神、恵み深い霊によって、安らかな地に導いてください。」

・ダビデの敵は次々と現れる。身内の敵は自らの肉を引き裂く痛みとなる。この想定外の敵がダビデの魂を揺すぶり苦しめる。ダビデの力はもう尽きそうだ。ダビデは「私の魂を苦しめる者を、ことごとく滅ぼしてください。」と祈るしかない。

-143:11-12「主よ、御名のゆえに、私に命を得させ、恵みの御業によって、私の魂を災いから引き出してください。あなたの慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。私の魂を苦しめる者を、ことごとく滅ぼしてください。私はあなたの僕なのですから。」

 

2.神の前に正しいものはいないと叫ぶ詩人

 

・詩篇143編の中核の言葉は2節「御前に正しいと認められる者はいない」であろう。人間は神の前に正しくありうるのかを問う書がヨブ記である。ヨブもまた「御前に正しい」者は一人もいないのに、何故私の罪をこれほどまでに追及されるのかと神に問う。

-ヨブ記15:14-16「どうして、人が清くありえよう。どうして、女から生まれた者が正しくありえよう。神は聖なる人々をも信頼なさらず、天すら、神の目には清くない。まして人間は、水を飲むように不正を飲む者、憎むべき汚れた者なのだ」。

・神の前に正しいものがいなければ人は救われるために、その罪過を帳消しにしてもらうほかはない。罪過の帳消しは古代イスラエルにおいては、神殿に動物を捧げ、それを焼き尽くすことによって行われた。

-レビ記4:22-24「共同体の代表者が罪を犯し、過って、禁じられている主なる神の戒めを一つでも破って責めを負い、犯した罪に気づいたときは、献げ物として無傷の雄山羊を引いて行き、その頭に手を置き、主の御前にある焼き尽くす献げ物を屠る場所でそれを屠る。これが贖罪の献げ物である」。

 

3.詩篇143編の黙想(正しい者はいない)

 

・エゼキエルは神の前に正しいものとして三人の義人をあげるが(エゼキエル14:14「たとえ、その中に、かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても、彼らはその正しさによって自分自身の命を救いうるだけだ、と主なる神は言われる」)、彼らは必ずしも完全無欠な存在ではない。人間の目から見れば「正しい者はいる」が、神の前に正しい者などいないと詩篇14編は叫ぶ。

-詩篇14:1-3「神を知らぬ者は心に言う『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」。

・詩篇14編の引用を通して、「神の前に正しい者はいない」との真理を明文化したのがパウロである。

-ローマ3:9-13「では、どうなのか。私たちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない』」。

・パウロそれを13節以下で詳細に語る。これが人間の真実だ。

-ローマ3:13-18「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」

・私たちは平時には私たちは社会の道徳を守って生きている。しかし、戦争のような非常時になると私たちは一変する。戦争において私たちは相手を殺し、弱い者たちを暴行し、相手の食べ物を奪う。そうしなければ生き残れないからだ。ラジオ放送「今語る戦争の現実」と題して、満蒙開拓団からの逃避行証言を聞いた。歩けない者、幼子、妊婦は逃避行の妨げになるから殺せという指導者の命令で、母が子を、父が祖父の首を絞めた等々の体験談が語られた。非常時にこそ、私たちの真の姿があらわになる。現在はそれがシリアからの難民やアフガンからの亡命難民、ウクライナ戦争での虐殺の数々、あるいはコロナ禍での誹謗中傷の形で繰り返されている。この世は罪と不正に満ちている、私たちもその中にある。

-詩篇94:5-7「主よ、彼らはあなたの民を砕き、あなたの嗣業を苦しめています。やもめや寄留の民を殺し、孤児を虐殺します。そして、彼らは言います『主は見ていない。ヤコブの神は気づくことがない』と」。

・その時、キリスト者はいかに生きるべきかが、パウロのローマ書の主題である。

-ローマ12:18-19「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われると書いてあります」。

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