江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年3月2日祈祷会(詩編140編「神の助けを求めて」)

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1、救いを求める者の歌

 

・本詩は敵に攻撃された信仰者が神ヤハウェに救いを求める祈りの歌である。

-140:1-4「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。主よ、さいなむ者から私を助け出し、不法の者から救い出してください。彼らは心に悪事を謀り、絶え間なく、戦いを挑んできます。舌を蛇のように鋭くし、蝮の毒を唇に含んでいます」。

・本詩において、詠い手は、彼を攻撃する敵を、「さいなむ者」、「不法の者」、「傲慢な者」と呼ぶ。不法な者とは、社会的に力のある者たちが、弱者を搾取・抑圧することを意味する。

-140:5-6「主よ、主に逆らう者の手から私を守り、不法の者から救いだしてください、私の歩みを突き落とそうと謀っている者から。傲慢な者が私に罠を仕掛け、綱や網を張りめぐらし、私の行く道に落とし穴を掘っています」。

・本詩は不当な告発によって苦しい立場に立たされた信仰者が、主ヤハウェの前で正しい裁きを願う祈りであろう。

-140:7-9「主に私は申します、あなたは『私の神』と。主よ、嘆き祈る私の声に耳を傾けてください。主よ、私の神よ、救いの力よ、私が武器を執る日、先頭に立って私を守ってください。主よ、主に逆らう者に欲望を満たすことを許さず、たくらみを遂げさせず、誇ることを許さないでください」。

・ユダ王国においては、不当な裁判を受けた者は、ヤハウェに(具体的にはエルサレム神殿に)上告できた。何千年も前にこのような上告制度があったことは驚くべき事実である。

-申命記1:17「裁判に当たって、偏り見ることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである。人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである。事件があなたたちの手に負えない場合は、私のところに持って来なさい。私が聞くであろう。」

・日本にも上告制度はあるが、原発運転差し止め訴訟や国家賠償裁判等の政治に関する訴訟では、一審で原告の主張が認められても、高裁・最高裁では否定されていくことが多い。裁判所も上に行くほど体制側に立つ。申命記の規定「裁判に当たって、偏り見ることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである。人の顔色をうかがってはならない」という、申命記規定は素晴らしい。

 

2、主に逆らう者を赦さないでください

 

・第四段落の10-12節では敵への呪いの言葉が重ねられる。信仰者は敵の滅亡を祈り願う。

-140:10-12「私を包囲する者は、自分の唇の毒を頭にかぶるがよい。火の雨がその上に降り注ぎ、泥沼に沈められ、再び立ち上がることのないように。舌を操る者はこの地に固く立つことなく、不法の者は災いに捕えられ、追い立てられるがよい。」

・私たちは敵を呪っても良いし、相手の滅亡を祈っても良いのだ。それが自然の感情であり、それを建前できれいごとにしてはいけない。下の投稿者が教師の建前に反発したのは当然である。

-ある投稿から「我が家の娘は祖母の強い推しもあって小中校とプロテスタント系の私立に通った。卒業してから娘に、教会にはいかなくていいのかと聞いたら、小学校のころ同級生からいじめにあって耐えられずに教師に相談したところ、教師が「いじめた相手を優しい心で、笑顔で愛せませんか」と言ってきたそうだ。そしていじめた本人には何も指導をしなかった。だから私はキリスト教を信じないし、教会にもいかないと娘は答えた」。

・13節で詩人は、この世的に虐げられている貧しい人々が、神の公正な裁きによって、神の御前に座れることを望んで、詩を結ぶ。

-140:13-14「私は知っています、主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ、乏しい人のために裁きをしてくださることを。主に従う人は御名に感謝をささげ、正しい人は、御前に座ることができるでしょう。」

 

3.詩篇140編の黙想

 

・古代アジアではかなり古くから法が整備され、最古の法典とされるハンムラビ法典の起源は前1740年頃とされる。旧約聖書の記述も多くはハムンラビ法典に影響されている。

-ハムンラビ法典1条「もし人が人を訴追し、殺人の嫌疑をかけても、彼の行為を確証できなければ、訴追したものは死刑に処せられる」。

・旧約聖書の規定は多くはハムンラビ法典に依拠するが、それを信仰の立場から校正している。

-出エジプト記23:6-7「あなたは訴訟において乏しい人の判決を曲げてはならない。偽りの発言を避けねばならない。罪なき人、正しい人を殺してはならない。私は悪人を、正しいとすることはない」。

-申命記17:6「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない」。

・列王記上21章に「ナボトのブドウ畑」の記事がある。北王国の王アハブはイズレエル人ナボトのぶどう園を欲しいと思い、ナボトに土地を売るよう求めるが、彼はこれを拒否する。イスラエルでは、土地は神のものであり、売買は原則禁止されていた。これを聞いた妃イゼベルは激怒し、夫アハブに「今イスラエルを支配しているのはあなたです」と言い(22:6-7)、イズレエルの長老にナボトを石で打ち殺せと命じ、土地を手に入れる。王であれば何をしてもよい、批判は許さない、そのような世界の中で、預言者エリヤはアハブ王を責めた「主はこう言われる。あなたは人を殺した上に、その人の所有物まで自分のものにしようというのか」(列王記上21:19)。そして語る「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」(列王記上17:1)。

・近隣の国々は専制国家であり、北イスラエルもそれに染まるが、繰り返し預言者(エリヤ、エリシャ、アモス、ホセア等)が現れ、神の法を守ることを求め、神の正義は守られていく。140編13-14節は語る。「主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ、乏しい人のために裁きをしてくださることを。主に従う人は御名に感謝をささげ、正しい人は、御前に座ることができるでしょう。」この信頼が信仰であり、イスラエルではこの信頼を貫くような法制度があった。

・パウロはローマ3章13節の中で、詩編140編4節「舌を蛇のように鋭くし、蝮の毒を唇に含んでいます」を引用し、人々の罪の実態を描いた。

-ローマ3:12-18「皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」

・言葉の暴力についてはヤコブも警告する。人間は何千年も言葉の暴力によって苦しめられてきた。

-ヤコブ3:6-10「舌は火です。舌は不義の世界です。私たちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、このようなことがあってはなりません」。

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