江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年2月23日祈祷会(詩編139編「主は私のすべてを知っておられる」) 

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1.私の全てを知っておられる神への賛美

 

・詩編139編は、自分の全てを知っておられる神に対する驚嘆から歌が始まる。

-詩編139:1-6「指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。主よ、あなたは私を究め、私を知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くから私の計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、私の道にことごとく通じておられる。私の舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからも私を囲み、御手を私の上に置いていてくださる。その驚くべき知識は私を越え、あまりにも高くて到達できない。」

・私たちは神から逃れることはできない。どこにいても神は私たちを見ておられる。

-詩編139:7-10「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもって私を導き、右の御手をもって私をとらえてくださる。」

・闇の中では人は何も見えないが、その闇も神の目を妨げることはできない。だから、神は人のすべてを見通すことができる。なにものも神の目を妨げることはできない。

-詩編139:11-12「私は言う。『闇の中でも主は私を見ておられる。夜も光が私を照らし出す。』闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない。」

・神は母の胎で私を形作り、それ以後も私の歩みを見ておられる。神は人の誕生以前からその人を知っておられる。なぜならば、神は人の内臓の一つ一つから造られ、その内臓の一つ一つから人を組み立てておられる。現代は年間20万件の人工妊娠中絶がある。神はどのよう思いでこれを見ておられるのだろうか。

-詩編139:13-14「あなたは、私の内臓を作り、母の胎内に私を組み立ててくださった。私はあなたに感謝をささげる。私は恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、私の魂はよく知っている。」

・詩人は人の生の初めを神の業と自覚し、生かされている実感して感謝する。

-詩編139:15-16「秘められたところで私は造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、私の骨も隠されていない。胎児であった私をあなたの目は見ておられた。私の日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も記されないうちから。」

・人は胎児の時から神に知られ、その生は母の胎にあるときから、神の書にすべて記録されていると詩人は歌う。英製薬会社の経口中絶薬使用を厚労省審議会が了承した。国内初の経口中絶薬であり、手術しかなかった中絶に新たな選択肢が加わり、女性の心身の負担を軽減できるとして国内承認を望む声が上がっていたという。これは喜ぶべきことか、呪うべきことなのか、判断がつかない。

-詩編139:17-18「あなたの御計らいは、私にとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く、そのはてを極めたと思っても、私はなお、あなたの中にいる。」

・神は私を敵から守ってくださった、その恩寵は数え切れないと詩人は歌う。

-詩編139:19-22「どうか神よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください。私を離れよ、流血を謀る者。たくらみをもって御名を唱え、あなたの町々を空しくしてしまう者。主よ、あなたを憎む者を私も憎み。あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし、激しい憎しみをもって彼らを憎み、彼らを私の敵とします。」

・最後に、「永遠の道に私を導いてください」という祈りで本詩は閉じられる、

-詩編139:23-24「神よ、私を究め、私の心を知ってください。私を試し、悩みを知ってください。御覧ください、私の道に迷いがあるかどうかを。どうか、私を、とこしえの道に導いてください。」

 

2.神との対話

 

・注解者月本昭男は述べる「人が神をおのれの意思や欲求をかなえる手段とみなしている限り、神との対話は起こらない。神を自分の意思を越えた人格的存在として信じる時に、人は神を心で受け止める。神信仰は内面化され、祈りは神との内なる対話となる」(詩編の思想と信仰から)。

・エレミヤは、主は人の心と思いを吟味する神であり、民の罪は「心の悪」、神への背きは「心の背き」ととらえた。

-エレミヤ17:9-10「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なる私である。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる」。

・人間に絶望したエレミヤは、新しい律法が心の中に刻み込まれることを願った。

-エレミヤ31:33-34「来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである・・・私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も私を知るからである、と主は言われる。私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。

 

3.詩篇139編の黙想、アウシュヴィツ後のヨブ

 

・しかし、悪は人間の心の中に残り続け、人は泣き続けている。このような世に私たちはどのような期待が持てるだろうか。マレー・ハーの描く「アウシュヴィツ後のヨブ」では、神は人間に絶望し、ヨブと共に粗布を身に纏い、灰の上に座す。

-アウシュヴィツ後のヨブから「洪水以前がそうであったように、今もまた、人間の心に思い図ることは混乱し、悪によって魔法をかけられている。そのことが私にはわかった。私は、律法が人間を訓練出来るであろうし、イエスが人類の心を動かして、殺害を止めさせうるであろう、と望んだ。聖書が、賛美歌が、信仰告白文が、教義が、典礼が、そしてあらゆる種類の宗教儀礼が人間を変えてくれるであろう、と望んだ。しかし、私は間違っていた。それらはみな失敗であった。殺害者たちは殺害をやめない」。

・「彼らの間に神がいないかのようだ。私が彼らに何を教えても、殺戮はやまなかった。この点で、お前は正しい。私が沈黙したのは、人間は人間らしくなれる、との空しい希望を抱いたからだ。私は間違っていた。」こうして、神は粗布を身に纏い、ヨブがしたように、灰の上に座した。そして、人間が、しかもその多くは神の名によって、行ったことを嘆いた。その後、ヨブと神は立ち上がり、連れだって町の中を歩いた。クラスノブロドのユダヤ人にとっては、それは遅すぎた。しかし、神とヨブは共働して人間の悪に抵抗すること、人間性を人間的性分に抗して変えてゆくことを、心に決めたのである。じっさい、それ以上の何が出来るであろうか。彼らが郊外の集団墓地にやって来て、累々と重なる死体を見つめた時、彼ら二人は、それが人類にとってほんとうに遅すぎることなのかどうか、想い巡らしていた」。

・アウシュヴィッツ後のヨブに描かれる「悔い改める神」こそ、イエスの語られた神ではないだろうか。マーカス・ボーグは著書「キリスト教のこころ」の中で、私たちは伝統的な「超自然神」ではなく、聖書に描かれるインマヌエルの神「万有内在神」を発見すべきだと語る。「超自然神は人に似た存在として神を描き出す。神は飛び抜けた最高の人格然たる存在で、実に至高の存在である。この人格然たる存在が世界を創造した。神は宇宙を超えて「いと高き天に」「向こう側」にいる。神は祈りに応えて、人の世に介入される」。

・ボーグは、超自然神は現実には破綻していると考える。「もし時に神が介入するのならば、介入がないことをどう説明するのか。もし神が介入してホロコーストを止めさせられたのに、しなかったとすれば、それはどういうことか。神がテロリストの攻撃を止めさせられるのに、しないと考えることに意味があるのだろうか」。マーカス・ボーグは、破綻した「超自然神」に代わる「万有内在神」を説く。「万有内在神の考え方自体は聖書に古くからある。この考えは神を「向こう側」の人格然とした存在としては描かず、共におられる「インマヌエルの神」と理解する。

・「超自然神」が、神を君主、立法者、審判者とみる考え方を導き、旧約においては「律法を守らない」者を処罰し、新約においては「イエスの贖いを信じない」者を破滅させる神という概念を導いた。それに対して「万有内在神」では、神を「愛と正義の神」とみる。イエスが対決したのは「律法の神」であり、イエスが唱えたのは「恵みの神」である。「現代人はもはや神を信じることは出来ない」という時の神は、この「超自然神」のことである。多くのクリスチャンたちが嘆く「神の沈黙」、「神の不在」も、この「超自然神」を考えているからであり、神を「私たちの中に、私たちと共に、私たちの背後」におられる「インマヌエルの神」と理解する時、神に対する疑問は解消する。このパラダイム転換、神概念の「非神話化」が今求められているのではないだろうか。

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