1.詩篇134編に見る礼拝のあり方
・詩篇134編は都上りの歌(巡礼歌集)の最終歌である。礼拝を終えて神殿を去る巡礼者たちが、明日の礼拝に備えて夜通し宮の番を行う祭司に対して、「主を讃えよ」と呼びかけ(1-2節)、それに呼応して「主があなたを祝福して下さるように」と祭司が答礼をした(3節)、その状況を歌ったものであろう。神殿においては毎朝夕に犠牲の羊が捧げられたため、祭司は夜通しその準備を行なって、夜明けと共に朝の礼拝が始まった。
-詩篇134:1-3「都に上る歌。主の僕らよ、こぞって主を讃えよ。夜ごと、主の家にとどまる人々よ。聖所に向かって手を上げ、主を讃えよ。天地を造られた主が、シオンからあなたを祝福して下さるように」。
・ここでは「バーラフ」という言葉が3回用いられている。1-2節ではそれは「讃える」と訳され、3節では「祝福」と訳される。神から人へのバーラフが「祝福」であり、人から神へのバーラフが「賛美」である。神から祝福が与えられ、それを感謝するのが賛美である。旧約における祝福の基本は子孫の繁栄である。
-創世記1:28「神は彼らを祝福して言われた『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」。
・アブラハムに対する祝福も子孫の繁栄と土地の取得である。
-創世記13:14-16「主は・・・アブラムに言われた『さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、私は永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう』」。
・やがて祝福は「私の戒めを守るならば」という形で与えられるようになる。
-申命記28:1-2「もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、今日私が命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう」。
・しかし民が主の戒めを守らなければ、祝福は取り上げられ、呪われると申命記は語る。
-申命記28:15「しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日私が命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう」。
・申命記はバビロン捕囚期に書かれた。民の不従順が捕囚の原因であったという歴史観がそこにある。
-申命記28:36「主は、あなたをあなたの立てた王と共に、あなたも先祖も知らない国に行かせられる。あなたはそこで、木や石で造られた他の神々に仕えるようになる」。
2.現代の教会の讃美と祝祷を考える
・詩篇134編は、「賛美と祝福のあり方」を私たちに考えさせる。現代の教会では、礼拝の締め括りとして「頌栄」が歌われ、「祝祷」がなされる。詩篇134編に即して考えれば、1-2節が頌栄、3節が祝祷に当たるであろう。祝祷の基本は民数記にある「アロンの祝祷」である。
-民数記6:24-26「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」。
・新約時代、祝祷は「父、御子、聖霊」の名によって為された。第二コリント書の結びの言葉が祝祷の代表的なものである。
-第二コリント13:13「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」。
・詩篇134編は同時に、「神の国はどこにあるのか」も私たちに考えさせる。人は言う「社会は罪に満ち、どこにも神の国はない」と。それに対して詩篇は応える「主への礼拝の中にあるではないか。ここでは主への賛美が為され、主の民への祝福があるではないか」と。
-ルカ17:20-21「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた『神の国は、見える形では来ない。ここにある、あそこにあると言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ』」。
・「死の谷を過ぎて~クワイ河収容所」の著者ゴードンは、第二次大戦中に捕虜として強制収容所に入れられた。強制労働により多くの人が死に、ゴードンもマラリヤやジフテリヤに罹り、「死の家」に運び入れられ、命が終わる日を待っていた。しかし、キリスト者の友人たちの看護で助けられ、回復後、仲間と共に奉仕団を結成して病人の介護を行い、聖書を共に読み、広場で礼拝を始めた。無気力だった収容所の仲間たちから笑い声が聞こえ、祈祷会が毎晩開かれ、所内に賛美の歌声が響く。彼はその時思う「エルサレムとは、神の国とは結局、ここの収容所のことではないか」。
・他方、同じイギリス人の記した「クワイ河捕虜収容所」(レオ・ローリングス著)の副題は「地獄を見たイギリス兵の記録」だ。ゴードンとローリングスを分けたものは何なのか。他者を無条件で赦し、迎え入れる時、奇跡が起こり、自分たちは不当に差別されていると恨む時、そこは地獄になっていく。祝福と呪いは紙一重の違いである。
3.詩篇134編の黙想(神の祝福と呪いを考える)
・バビロン捕囚は歴史的に見れば、大国バビロニアが小国ユダを征服し、その住民を捕虜として連れ去った出来事であり、歴史上、ありふれた事件である。しかし、信仰の目で見れば、「神がバビロニア王を用いてユダの民を懲らしめ」、「その懲らしめを通してユダを救われる」出来事だ。国の滅亡や捕囚を通して、神の救いの業がなされている。
・国を滅ぼされ、神殿もダビデ王家もなくなり、帰還の道を断たれた民は、バビロニアで生きることを受け入れ、神が何故自分たちを滅ぼされたのかを求めて、父祖からの伝承を集め、編集していった。その結果、神を離れ、奢り高ぶった罪が罰せられたことが捕囚であることを知り、悔改めた。創世記や出エジプト記、申命記等の旧約聖書の中核が編集されたのは、この捕囚期である。イスラエルの民は捕囚、国家の滅亡を通して、ダビデ王家とエルサレム神殿を中心とする「民族共同体」から、神の言葉、聖書を中心にする「信仰共同体」に変えられて行った。
・そして聖書は紀元前3世紀に当時の世界共通語であるギリシャ語に翻訳され(70人訳聖書、セプターギンタ)、民族を超えた正典になって行く。各地に散らされたイスラエルの民はそれぞれの地にシナゴーク(礼拝所)を立て、ギリシャ語聖書を読み、そこに主を求める人々が集められていく。バビロン捕囚という悲痛な出来事がなければ旧約聖書は生まれず、旧約聖書がなければ新約聖書も生まれなかった。
・くびき、あるいは人生の重荷もそうだ。人間的に考えれば、ない方が良い。しかし、くびきを負わなければ、罪を見つめて悔い改めなければ救いは来ない。病気のために生涯寝たきりの人生を送った、水野源三さんは歌う「もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。多くの人が苦しまなかったら、神様の愛は伝えられなかった。もしも主イエスが苦しまなかったら、神様の愛は現われなかった」。
・バビロン捕囚を人々は「滅びの出来事」だと思ったが、エレミヤは「それは『平和の計画』であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(29:11)と語る。人は裁きを通して初めて悔い改め、悔い改めた者に、祝福が与えられる。「病まなければささげ得ない祈りがあり、病まなければ信じ得ない奇蹟があり、病まなければ聴き得ない御言葉がある」(河野進・祈りの塔より)。ここには病気や死が呪いから祝福になっていく世界が示されている。私たちに予想もしない苦難が与えられることがある。耐えられない重荷が与えられる時がある。その時、私たちは叫ぶ。「わが神、わが神、どうして」と。その叫びを通して私たちは神に求め、神は応答される「私のくびきを担いなさい。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである」。