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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

聖書教育の学び

2022年11月27日聖書教育の学び(2022年4月6日祈祷会、ルカ4:16-44、ガリラヤでの宣教活動)

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1.ガリラヤでの宣教の始まり

 

・イエスはヨルダン川で洗礼を受けられた後、ガリラヤに戻られ、その地で宣教の業を始められた。

-ルカ4:14-15「イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」。

・ガリラヤ各地を巡回された後、イエスは生まれ故郷のナザレに行かれた。各地でのイエスの言葉と癒しの業は、評判となり、ナザレにも伝わっていたので、人々は郷里出身の評判の預言者の話を聞こうと、会堂に集まって来た。当時のユダヤでは、安息日に人々は会堂に集まり、最初に律法(モーセ五書)が読まれ、その後に預言書が読まれた。会堂に入られたイエスは係りの者から巻物を渡され、イザヤ書61章1-2節を読まれた。

-ルカ4:17-19「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。

・イエスが聖書を読み、席に着かれると、会堂にいるすべての人の目が、イエスに注がれた。何事かを期待する目だった。当時のユダヤは、ローマの植民地であり、ローマへの税金と、ローマが任命した領主への税金の二重の取り立てがあり、もし払えなければ妻や子を売り、それでも払えなければ投獄された。また、多くの人々は自分の土地を持たない小作人だった。地主は収穫の半分以上を徴収し、小作人の手元に残るものは少なく、豊作の時でさえ食べてゆくのがやっとで、天候が悪く凶作になれば飢え、病気になれば医者にもかかれず死ぬばかりの生活だった。彼らはひたすら救い主を待ち望み、この生活が変えられる日を待望していた。その彼らが注目する中で、イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」と話された。

-ルカ4:20-21「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した』と話し始められた」。

・イエスは人々の困窮を憐れんで、イザヤ書「主の恵みの年」の預言を語られた。イエスは言われる「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」と。あなた方が待ち望んでいた救いの時が来た。神の国はすぐそこにある。人々はその言葉に感動してイエスを讃えた。

-ルカ4:22a「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いた」。

・人々が求めたのは病の癒しであり、貧困からの解放だった。それに対してイエスは、「神の言葉に信頼せよ」と言うだけで何も具体的なしるしを行わない。だから人々はつぶやき始めた。

-ルカ4:22b「この人はヨセフの子ではないか」。

・大工のヨセフの子、自分たちと同じく貧しく、地位も権力もないヨセフの子が、なぜ解放の約束ができるのか。彼には私たちを解放する財力も権力もないではないか。一度は感動した彼らが、イエスの中に預言者ではなく、大工の子を見てしまった時、イエスの言葉を聞けなくなってしまった。説教者と会衆の間に信頼関係がない所では、どのような言葉も届かない。

-マルコ6:3「『この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた」。

・イエスが彼らのために用意された恵みと救いの言葉は、彼らの心には届かなかった。だからイエスは続いて言われた「救いは信仰によって与えられる。その信仰が無ければ救いは無い」と。村人はイエスの奇跡を待った。奇跡を起こしてくれれば信じようと。しかしイエスは奇跡を起こされなかった。

-ルカ4:23-24「イエスは言われた『きっと、あなたがたは、医者よ、自分自身を治せということわざを引いて、カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれと言うにちがいない』。

そして、言われた『はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ』」。

 

2.預言者は郷里では敬われない

 

・「預言者は郷里で受け入れられない」、キリスト者は神の言葉を預かり、世を改める新しい世界観を世に示す役割を担っているが、世の人々はそんなものは要らない、毎日を楽しく暮らせるものを欲しいと求める。それゆえにキリスト者は人々から理解されにくい。受け入れる準備のないところでは何もできない。

-マルコ6:5「(イエスは)そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」。

・イエスは「信じる者だけが救われる。ユダヤ人だから救いに預かるのではない」と語られた。サレプタの寡婦は見ずに信じた故に救われた(列王記上17章)。シリア人ナアマン将軍の救いも同じであった(列王記下5章)。しるしを見たら信じようという者は、しるしを見ても信じない。

-ルカ4:25-27「確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」

・イエスの言葉を聞いた人々は怒り始めた。彼らはイエスからもらうことを期待し、与えないイエスを殺そうとした。人が求めるのは“現世利益”であり、それを与えないイエスを人々は十字架につけよと叫ぶ。

-ルカ4:28-29「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」。

・イエスは人々に抑圧からの解放を告げられた。しかし、多くの人々にとって救済とは社会的・政治的救済であった。ユダヤはローマの植民地として苦しんでいた、人々は土地を奪われて生活が苦しかったから、メシアが土地を取り戻してくれる日が来ることを願った。病で苦しんでいたから、病を癒してくれるメシアの到来を期待した。イエスがそのようなメシアでないことがわかると、人々はイエスを十字架につけて殺した。

-ルカ23:35-37「民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。』」

 

3.悪霊払いと巡回宣教

 

・会堂に悪霊につかれた男が来てイエスに大声で叫んだ。イエスはその男から悪霊を追い出された。当時、精神的な病は悪霊の仕業と信じられていた。

-ルカ4:31-37「イエスはガリラヤの町カフアルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた・・・会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。『ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。イエスが、『黙れ、この人から出て行け』とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷もおわせずに出て行った。人々は皆驚いて、互いに言った。『この言葉は一体何だろう、権威と力とをもって汚れた霊に命じると出て行くとは。』こうしてイエスのうわさは辺り一帯に広まった」。

・ルカはシモンの姑の高熱やその他の病さえもそこに悪霊がいるゆえにと考える。

-ルカ4:38-39「イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした」。

・イエスの病気癒しの業は続く。人々は次から次に病人をイエスの下に連れて来た。イエスは彼らを癒された。ルカは悪霊との闘いこそ、イエスの業の中心であったと理解している。

-ルカ4:40-41「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。悪霊もわめき立て、『お前は神の子だ』と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである」。

・カフアルナウムの人々はイエスの病気癒しに感動し、自分たちから離れないよう頼むが、イエスは「福音は広く伝えられるべきだ」と語り、宣教のために出て行かれた。彼らは福音の宣教者ではなく、病気癒しを行う治癒者を求めた。

-ルカ4:42-44「朝になるとイエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。しかし、イエスは言われた。『ほかの町にも神の国の福音を述べ伝えなければならない。私はそのための遣わされたのだ。』そして、ユダヤに諸会堂に行って宣教された。」

 

4.ルカ4章の黙想

 

・クリスチャンの精神科医・赤星進は多くの心の病を持つ信徒を診察し、その分析から、信仰には“自我の業としての信仰”と“神の業としての信仰”の二つがあると結論した(「心の病気と福音」)。自我の業としての信仰とは、自分のために神をあがめていく信仰だ。熱心に聖書を読んでいる、教会の礼拝も欠かさず参加している、人に非難されるようなことはしていない、だから救って下さいという信仰である。救われるために信じる、ナザレの人々の信仰はそうだった。彼らは現在の貧しい生活が豊かになることを、異邦人ローマの圧制から自分たちの国が解放されることを願っており、その期待をイエスにかけた。しかしイエスはそのようなものを与えようとはされなかった、だから彼らはイエスに失望した。私たちが最初信仰に導かれる時は、この自我のわざとしての信仰を通してだ。この病を癒してほしい、この苦しみを取り除いてほしいとして、教会の門をたたき、聖書を読み、バプテスマを受ける。しかし、この信仰に留まっている時は、やがて信仰を失う。自我の業としての信仰は、要求が受け入れられない時には、崩れていく。

・もう一つの信仰のあり方、神の業としての信仰とは、赤子が母親に対してどこまでも信頼するのに似た、神に対する信頼である。生まれたばかりの赤子は一人では生きていくことができない。ただ一方的に母親の愛を受け、その中で安心して生きていく。イエスが示されたものはこの信仰、神への基本的信頼の信仰である。ルカ12:29-30「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」。

・天の父は生きるために必要なものは与えてくださるから、だから生活の糧を得る心配や苦労から解放されなさい。あなた方は「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」(12:31)。ルターは語る「信仰は人間的な幻想や夢幻ではない。信仰は私たちの中に置ける神の業であり、私たちを変えて新しく生まれさせる」(マルティン・ルター「ロマ書への序言」から)。ナザレの聴衆は私たちなのだ。聖書を自分に関係のないものとして読む時、その言葉は私たちを通り過ぎる。聖書を自分への語りかけとして読む時、その言葉は私たちを生まれ変わらせる力を持つ。私たちは真実が見えないのだから、イエスによって目を開けてもらう必要があるのだ。そしてイエスは「私たちの目を開けよう」と2000年前にナザレの会堂で約束され(ルカ4:18)、その約束は今日も続いている。

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