江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年8月24日祈祷会(箴言15章、肥えた牛を食べて憎み合うよりも)

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1.柔らかな応答は憤りを静める

 

・箴言15章には、言葉に関する格言が次から次へと語られる。

-箴言15:1-4「柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。知恵ある人の舌は知識を明らかに示し、愚か者の口は無知を注ぎ出す。どこにも主の目は注がれ、善人をも悪人をも見ておられる。癒しをもたらす舌は命の木。よこしまな舌は気力を砕く」。

・「売り言葉に買い言葉」という諺が示す通り、会話が激昂すれば人を傷つけ、殺すような大火になる。ヤコブは「舌は大きい森さえも焼き尽くしてしまう」と警告する。

-ヤコブ3:5-8「舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は『不義の世界』です。私たちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」。

・「柔らかな応答は憤りを静める」、舌を制御する最良の方法は沈黙ではないかと思える。木がなくなれば火は静まる。「反論しない、言い返さない、あえて嘲笑を受ける」、その行為が人との関係を平和に導く。

-第一ペテロ2:21-24「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった』。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」。

 

2.知恵ある人々の唇は知識を振りまく

 

・言葉は人を傷つけるが、同時に言葉は人を癒し、励ますことも出来る。

-箴言15:7-9「知恵ある人の唇は知識をふりまく。愚か者の心は定まらない。主は逆らう者の生贄をいとい、正しい人の祈りを喜び迎えられる。主は逆らう者の道をいとい、従うことを求める人を愛される」。

・どうすれば「人を癒し、励ます」ことが出来るのだろうか。言葉の正しい意味を知ることである。例えば十戒を私たちは禁止命令と受け取るが、原文では断言法で書かれている。つまり、十戒は「私の救いを受けた者は、人を殺したり、姦淫したり、人をだますようなことをするはずがない」という信頼の言葉なのである。それを知った時、戒めの言葉の意味が異なってくる(より原文に近い英語訳は「You shall not、~しないであろう」と訳している)。

-出エジプト20:13-16「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない」。

-出エジプト20:13-16「You shall not murder. You shall not commit adultery. You shall not steal. You shall not bear false witness against your neighbor.」

 

3.肥えた牛を食べて憎み合うよりも青菜の食事で愛し合う方がよい

 

・15:17「肥えた牛を食べて憎みあうよりは」という言葉は示唆に富む。「肥えた牛を食べる」、裕福の象徴であるが、金持ちであることは必ずしも幸せを意味しない。

-箴言15:15-17「貧しい人の一生は災いが多いが、心が朗らかなら、常に宴会にひとしい。財宝を多く持って恐怖のうちにあるよりは、乏しくても主を畏れる方がよい。肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい」。

・今日、人々の価値基準が「お金」だけになってしまった。ハーヴィ・コックスは語る「今日では市場が全知全能の神の偏在する場となってしまった」。市場原理主義=金儲けこそ善であるとの新しい宗教が世界を席巻している。かつてのレーガノミクスやサッチャーリズムもそうだったし、アベノミクスもその焼き直しである。その結果、市場競争が無制限に肯定され、貧富の格差が拡大している。これはマモンの宗教であり、遅かれ早かれ崩壊する。悪は永続しないのである。

-マルコ10:23-25「イエスは弟子たちを見回して言われた『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか』。弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた『子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい』」。

 

4.懲らしめに聞き従う耳は知恵を宿す

 

・箴言は繰り返し、懲らしめの効用を説く。懲らしめ、訓練こそ、人を成長させる。

-箴言15:31-33「命を与える懲らしめに聞き従う耳は、知恵ある人の中に宿る。諭しをなおざりにする者は魂を無視する者。懲らしめに聞き従う人は心を得る。主を畏れることは諭しと知恵。名誉に先立つのは謙遜」。

・箴言には、「懲らしめ」という言葉が20回以上用いられている。「懲らしめを憎む者は死に至る」、「批判を受け入れてこそ、成長がある」ことを再確認すべきであろう。

-箴言15:10-12「道を捨てる者は諭しを不快に思う。懲らしめを憎む者は死に至る。陰府も滅びの国も主の御前にある。人の子らの心はなおのこと。不遜な者は懲らしめられることを嫌い、知恵ある人のもとに行こうとしない」。

・懲らしめこそ、父なる神の与えられた訓練である。その訓練を通して人は強められ、立ち上がる。

-ヘブル12:5-12「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである』。・・・およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」。

・『失楽園』を書いたミルトンは、41歳の時、過労で失明している。ミルトンが代表作「失楽園」を書いたのは、彼の失明後だ。ミルトンは語る。「盲目であることが悲惨なのではない、盲目に耐えられないことが悲惨なのだ。真理のための受難は崇高なる勝利への勇気なのだ」。

・ペテロは生前に三度イエスを否定しているが、教会は、彼の失敗を責めず、彼を教会の筆頭使徒に立て、そのことによって初代教会は活動を拡大する事ができた。パウロは教会の迫害者でありながら復活のイエスと出会い、偉大な伝道者になった。もしパウロがかつて教会を迫害したことをもって初代教会が彼の伝道活動を阻んだら、今日のキリスト教会はなかったであろう。聖書は「人にやり直すことを認める赦しの福音」に満ちた書だ。聖書は、「人間の失敗とそれを赦す神の憐れみの歴史」を物語る書なのだ。まさに「懲らしめこそ、父なる神の与えられた訓練であり、人はその訓練を通して強められ、立ち上がる」。

・創世記7章には二つの資料が用いられている。基本となる原初資料(ヤハウェ資料、前10世紀)では洪水は120日(40日の降雨、40日の洪水、40日の減水)と限定的だ。他方、補筆された資料(祭司資料、前6世紀)では洪水は364日(150日の降雨、150日の洪水、64日の減水)で大掛かりだ。創世記では元々の伝承(原初資料)に祭司たちが加筆する形で洪水物語が形成されている。留意すべきは11節「深淵の源が裂け、天の窓が開かれた」という記述だ。この部分は祭司による補筆で、祭司たちは洪水によって創造の秩序が失われたと理解している。自分たちの罪の結果、このような秩序の崩壊が起きたと祭司資料は語る。創世記7章は罪を犯して捕囚地に流された人々の悔い改めの書なのだ。

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