江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年7月13日祈祷会(箴言9章、知恵の七柱)

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1.知恵の招き

 

・箴言は1~9章がその第一部であり、そこでは「知恵の賛美」がなされ、9章は第一部のまとめとなる。8章に続いて知恵が人格化され、知恵の招きと愚かさの招きが対比されている。「知恵は7つの柱」を持つと記される。神は7日で天地を創造された。7は聖書においては完全数である。

-箴言9:1「知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた」。

・後代の人々はこの「知恵の7柱」という言葉の中に、特別の意味を見出した。「アラビアのロレンス」として知られた考古学者エドワード・ロレンスは、自身が関与したアラブ独立運動の歴史を「知恵の七柱」として出版し、今日でも古典として読まれている。日本総合研究所は2011年6月に震災復興のための提言を「復興の七柱」としてまとめた。いずれも箴言9章から取られている。

・箴言9章本文では知恵が主催する宴と、愚かな女が主催する宴の違いが対比されて記される。知恵は最良の食物とぶどう酒を用意して人々を招く。分別の道を教えるためである。

-箴言9:2-6「(知恵は)獣を屠り、酒を調合し、食卓を整え、はしためを町の高い所に遣わして、呼びかけさせた。『浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい』。意志の弱い者にはこう言った。『私のパンを食べ、私が調合した酒を飲むがよい。浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために』」。

・イエスは新約聖書では「神の知恵」と呼ばれている。しかし、イエスの招きに応えた者は少数であった。皆、自分の生活を優先していたからである。

-ルカ14:16-24「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った・・・主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいない』」。

・聖書学者の大貫隆は、ルカ「盛大な宴会」の喩えで、人々は「多忙を理由に出席を断る」が、その意味を解説する「日常的・連続的時間(クロノス)の根強さがここにある。仕事に追われて宴会どころではない。神の国、そんな話を聞いている暇はさらにない。イエスの『今(カイロス)』が、生活者の『クロノス』と衝突し、拒絶される」(大貫隆『イエスという経験』(p.96))。

・しかし、「今に忙殺され、将来を考えようとしない」現代人も、人間存在の根底的問題、「死」に直面した時は平気ではいられない。1985年8月12日、日航機が群馬県上野村御巣鷹山中に墜落し、520名の方々が亡くなったが、28年後の今も遺族は慰霊登山を続ける。彼らにとって事故は終わっていない。親しい者の死を通して、「“カイロス”の意味を尋ね続ける」時に変わる出来事が起きている。知恵の招きもいつかその意味がわかる時が来る。

-箴言5:12-14「どうして、私の心は諭しを憎み、懲らしめをないがしろにしたのだろうか。教えてくれる人の声に聞き従わず、導いてくれる人の声に耳を向けなかった。会衆の中でも、共同体の中でも、私は最悪の者になりそうだ」。

 

2.愚か者の招き

 

・それに対して愚かな女の提供する宴は、「盗んだ水と隠れて食べるパン」である。それは死をもたらす禁断の食べ物として描かれる。

-箴言9:13-18「愚かさという女がいる。騒々しい女だ。浅はかさともいう。何ひとつ知らない。自分の家の門口に座り込んだり、町の高い所に席を構えたりして、道行く人に呼びかける。自分の道をまっすぐ急ぐ人々に。『浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい』。意志の弱い者にはこう言う。『盗んだ水は甘く、隠れて食べるパンはうまいものだ』。そこに死霊がいることを知る者はない。彼女に招かれた者は深い陰府に落ちる」。

・禁じられた果実は人を魅惑する。角田光代著「紙の月」では、銀行に勤めるアルバイト主婦が、夫の「誰が養っていると思っているのだ」という言葉に衝撃を受け、自分の自由になるお金を求めて横領を繰り返し、破滅する様が描かれている。人は退屈な日常からの解放を求めて禁断の実を食べてしまう。

-創世記3:4-7「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ』。女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」。

・しかし救いはそこから始まる。人はエデンの園を追い出されることを通して、自分の限界を知り、また罪を犯してもなお神の保護下にあることを知る故に神の知恵を求める。そして言う「主を畏れる事こそ知恵の初め」と。

-箴言9:10-12「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め。私によって、あなたの命の日々もその年月も増す。あなたに知恵があるなら、それはあなたのもの。不遜であるなら、その咎は独りで負うのだ」。

・パウロはこのアダムとエバの過ちはイエス・キリストによって覆われたと記す。人は過ちを犯してもなお神の保護下にある。これこそ福音=良い知らせであろう。

-第一コリント15:20-22「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」。

 

3.知恵の木の実を食べることは罪なのだろうか。

 

・創世記では、神は園の中央に「善悪の知識の木」を置かれたと書く(2:9)。そして、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(2:16-17)と言われた。しかし、人は、禁じられたその実を食べてしまう。

・教会は伝統的に創世記3章に「罪」の問題を見てきた。パウロはローマ教会への手紙の中で語る「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ローマ5:12)。一人の人アダムが「神の戒め」を破ったゆえに、罪が人間の中に入り、人は死ぬものとなったとの理解だ。この理解は正しいのか、「罪とは何か」、「人間は何故罪を犯すのか」。

・人間には「制約の中の自由」が与えられていた。「善悪の知識の木からは食べてはならない」、人は制約なしには共同生活を営むことができない。共同生活は制約があってこそ初めて成り立つ。「人を殺してはいけない」という制約のない社会では、人間は欲望のままに相手を殺し、混乱と無秩序が生まれる。「姦淫するな」という制約がなければ、家族は互いに疑い合い、憎み合う存在になる。「共に生きる」には制約が不可欠だ。しかし人間は制約、あるいは限界が置かれると、その限界を不自由だと思う存在だ。哲学者のエマニュル・カントは語る「アダムとエバが善悪の木の実を食べた時、人間は理性に目覚めた」。ある意味でこの物語は「人が幼子から成人になるためにたどる原体験」を暗示している。

・森本あんりもカントと同じように、「堕罪物語は私たちの成長物語」と述べる。

-森本あんり「現代に語りかけるキリスト教」から「知恵の木の実を食べることで得られる“善悪の知識”は人間が人間として生きるためにどうしても必要な知識だった。善悪を知ることなしに自立した責任主体となることはできない。楽園の生は、いわば歴史以前の“夢見る無垢”の時代、園における本質主体としての人間は、子供と同じで罪を知らない。しかし人間は罪を犯すことで初めて現実の人間となり、大人となる・・・人間は現実の歴史に生き始めるために、神話の園の外に出て行かなければいけない。堕罪により、この反逆により、人間は神との関りに行き、神の前に生きる存在とされたのである」。

・その木が「善悪を知る木」と名付けられているのは象徴的だ。ここでいう「善悪」は、「善と悪に至るすべての知識の総称」を意味し、その木の実を取って食べることは、「善悪」のすべての知識を、自分を基準にして自由に決定づけることを意味する。「その実を食べるな」という禁止は、「私は神の判断を仰がずに、自分で判断する」という人間の主権宣言に対して、神が「自由は責任を伴うことを覚えなさい」と警告された言葉だ。「責任を負えるのであれば食べよ、そうでなければ食べるな」と、創世記は人間の自由意志とその責任の重さを、エデンの中央に置いている。

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