1.捕囚からの帰還を体験した民
・詩編96編・70人訳では「捕囚の後、家が建てられた時」との前書きがある。家はエルサレム神殿を指す。詩編96編はバビロンからの帰還民が第二神殿を建設し、神殿の新年の祝いの時に歌われたものであろう。
-詩編96:1-3「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。国々に主の栄光を語り伝えよ、諸国の民にその驚くべき御業を」。
・「救いの良い知らせ」、ギリシャ語70人訳はこの個所に「エウアンゲリゾマイ」(良き知らせを伝える)を挿入する。福音(エウアンゲリオン)の原型である。国を滅ぼされた民族が70年の時を経て帰還し、新しい国を造ることはこれまでの歴史ではなかった。そのありえないことが起こった。だから「新しい歌を歌い、その良き知らせをあらゆる民に語り伝えよ」と民は促される。
-詩編96:4-6「大いなる主、大いに賛美される主、神々を超えて、最もおそるべき方。諸国の民の神々はすべてむなしい。主は天を造られ、御前には栄光と輝きがあり、聖所には力と光輝がある」。
・諸国の神々はイスラエルの祖国帰還を阻止できなかった。何故ならば諸国の神々は単なる木や金で出来た偶像神であって、民を救う力を持たないからだ。
-イザヤ44:16-17「木材の半分を燃やして火にし、肉を食べようとしてその半分の上であぶり、食べ飽きて身が温まると『ああ、温かい、炎が見える』などと言う。残りの木で神を、自分のための偶像を造り、ひれ伏して拝み、祈って言う『お救いください、あなたは私の神』と」。
2.新しい歌を主に向かって歌え
・新しい時代には新しい歌を歌う。諸国の民もひれ伏せ、主こそ真の神であることが今回の出来事を通して、明らかになったではないか。
-詩編96:7-9「諸国の民よ、こぞって主に帰せよ、栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り、聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ」。
・イスラエルの民は国が滅ぼされ、自分たちが捕囚になった時、「自分たちの神がバビロンの神に敗けた」として嘆いた。長い捕囚の間に彼らの希望も潰えた。その悔しさを彼らは詩編137編に残している。
-詩編137:1-9「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、私たちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。私たちを捕囚にした民が、歌をうたえと言うから、私たちを嘲る民が、楽しもうとして、『歌って聞かせよ、シオンの歌を』と言うから。どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で・・・娘バビロンよ、破壊者よ、いかに幸いなことか、お前が私たちにした仕打ちをお前に仕返す者、お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は」。
・捕われの彼らがバビロンから救い出された。人々は夢を見ているようであった。
-詩編126:1-6「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、私たちは夢を見ている人のようになった。そのときには、私たちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう『主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた』と・・・涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」。
・この贖いを体験した彼らは、諸国の民と共に主を賛美する。主が世界の創造者であれば、全ての国民も主の支配下にある。
-詩編96:10-13「国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。主は諸国の民を公平に裁かれる。天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ、海とそこに満ちるものよ、とどろけ。野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め、森の木々よ、共に喜び歌え。主を迎えて。主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き、真実をもって諸国の民を裁かれる」。
・詩篇96編は第二イザヤの預言の影響を受けて書かれたとされる。
-イザヤ40:10-11「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」。
・この詩篇には異邦人を排斥する動きはどこにもない。むしろ異邦人に、共に主を礼拝しようと呼びかける。しかし時間の経過と共にイスラエルは再び民族主義に戻り、異邦人を排斥する様になる。使徒行伝が伝えることは、エルサレム教会さえ異邦人排斥から自由でなかったことだ。だから主はエルサレム教会を滅ぼされた。私たちの教会も閉鎖的になれば同じく滅ぼされるだろう。教会は考えも育ちも異なるすべての人に開かれてこそ教会なのだ。そのことを銘記する必要がある。
-ガラテヤ2:11-14「ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました」。
3.詩篇96編の黙想
・詩篇96編は主の統治を国々向かって宣言する。しかし現実政治の中では、イスラエルは小国であり、政治的には大国に朝貢し、支配者にすり寄りながら生きて来た。そのイスラエルの在り方を、イザヤは批判する。
-イザヤ30:1-2「災いだ、背く子らは、と主は言われる。彼らは謀りごとを立てるが、私によるのではない。盟約の杯を交わすが、私の霊によるのではない。こうして、罪に罪を重ねている。 彼らは私の託宣を求めず、エジプトへ下って行き、ファラオの砦に難を避け、エジプトの陰に身を寄せる」。
・現実政治の中では、小国は大国の保護のもとに、国の存立を考えざるを得ない。それにもかかわらず、詩人は諸国の民にエルサレム神殿に参詣して、その安泰を願えと語る。
-詩篇96:7-10「諸国の民よ、こぞって主に帰せよ、栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り、聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。主は諸国の民を公平に裁かれる」。
・聖書では、国には、「神の国」と「世の国」があると語る。世の国の支配原理は力であり、その勢力は国境によって定められる。そのため、世の国、地上の国々では、「国境」や「民族」を巡って、力と力がぶつかって戦争が絶えない。しかしイスラエル民族は国境や民族を超えた「神の国」を求めた。力による支配は必ず滅びることを彼らは知っていた。注解者月本昭男は述べる。
-詩篇96編注解から「栄光と力は諸国民を支配する『地上の大王』にあるのではない。栄光と力を帰すべき存在は、天地万物の創造者である『神ヤハウェ』以外にはない。この神こそ、真の王として、民族の大小強弱に関わりなく、世界のあらゆる民を義と信実によって公平に治められるであろう。諸民族は地上の権力者の下ではなく、この神の下に集わねばならない。地上のいかなる絶対権力をも相対化する視座がここにある」