江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年3月31日祈祷会(詩編95篇、もう罪を犯してはならない)

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1.神殿における祝祭歌

 

・詩編95編は神殿における祝祭歌とされる。捕囚帰還後の第二神殿時代の典礼歌であろう。最初に、「神殿の中庭に向かって歩め、楽の音に合わせて主を賛美せよ」と歌われる。

-詩編95:1-2「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。御前に進み、感謝をささげ、楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう」。

・世界は主が造られた、天も地も主により創造され、保持されると讃美は続く。

-詩編95:3-6「主は大いなる神、すべての神を超えて大いなる王深い地の底も御手の内にあり、山々の頂も主のもの。海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた」。

・「主が私を造られ、私たちをその民とされた」と詩人は賛美する。

-詩編95:7a「私たちを造られた方、主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう主は私たちの神、私たちは主の民、主に養われる群れ、御手の内にある羊」。

 

2.もう罪を犯してはならない

 

・7節後半から論調は一変する。天地を創造された方は、私たちを導かれる羊飼いである。しかしあなたたちは、「神を試みる」という罪を犯した。「もう罪を犯してはならない」と典礼歌は続く。背景には、故国帰還が為されても、一向に良くならない日々の生活についての、民衆の不満とつぶやきがあったからだろう。

-詩編95:7b-9「今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。『あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように、心を頑にしてはならない。あのとき、あなたたちの先祖は私を試みた。私の業を見ながら、なお私を試した』」。

・メリバとマサの体験は出エジプトでの出来事である。エジプトから救い出された民は荒野に導かれたが、そこには水はなく、民はつぶやく「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。私も子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」(出エジプト17:3)。モーセは主に願い、主は民に水を与えられた。これで、一時的には問題は解決したが、苦難が来れば同じ問題が再燃する。

-出エジプト記17:6-7「『見よ、私はホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる』。モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試したからである」。

・主がバビロンから解放してくださっても、毎日の生活の苦しさの中でつぶやく民の姿がある。私たちはいつも神を試している。「神は本当におられるのか」、「神がおられるのなら水を与えよ」、「神がおられるのなら病を癒せ」。神を試すとは神を自分の奴隷にすることだ。これは信仰ではない。だから神は言われた「あなた方に安息を与えることはない」と。申命記の命令がここに響いている。

-申命記6:16-18「あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。あなたがたの神、主の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。主が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる」。

-申命記10:12-16「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、私が今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない」。

・現代人もまた神を被告席に立たせ、裁いている。神を攻撃し、自分があたかも裁判官であるようにふるまっている。神がおられるなら、「何故アウシビッツの悲劇を救済されなかったのか」、「広島の核爆弾投与を何故許されたのか」、「ウクライナでの犠牲者を何故放置されるのか」。それは人間の罪の問題であるのに、私たちは神を攻め立てる。

-C.S.ルイス・被告席に立たされる神「古代人は鋭い罪意識を持ち、被告人が裁判官に近づくように神に近づいていった。しかし現代人は罪の意識を持たずに自分が裁判官となり、神が被告席につく」。

・神に従うとは「神を信じ、試さないこと」だ。私たちはその模範をイエスの荒野の試みに見る。

-マタイ4:5-7「悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った『神の子なら、飛び降りたらどうだ。神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支えると書いてある』。イエスは『あなたの神である主を試してはならないとも書いてある』と言われた」。

・エジプトを出て約束の地に入ることのできた者はほとんどいなかった。エジプトを脱出した世代が死に絶え、新しい世代が起こり、彼らが約束の地に入った事を覚えよ。今あなた方も同じ状況にある。不平を言い続ければ主から捨てられるであろう。悔い改めよ、今日決断しなければ遅いのだ。

-詩編95:10-11「四十年の間、私はその世代をいとい、心の迷う民と呼んだ。彼らは私の道を知ろうとしなかった。私は怒り、彼らを私の憩いの地に入れないと誓った」。

 

3.へブル書に見る詩編95編の解釈

 

・へブル書の著者は詩編95編を引用して、旧約の民の不従順を指摘する。モーセの民イスラエルは、エジプトからの救済と新しい地への約束にもかかわらず、神に不従順であったゆえに、ほとんどの者は救いからもれた。約束の地に到達できたのは、苦難の中で従い通したヨシュアとカレブの二人だけだった。

-ヘブル3:7-11「聖霊がこう言われる通りです。『今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗した時のように、心をかたくなにしてはならない。荒れ野であなたたちの先祖は私を試み、験し、四十年の間私の業を見た。だから、私は、その時代の者たちに対して憤ってこう言った。彼らはいつも心が迷っており、私の道を認めなかった。そのため、私は怒って誓った。彼らを決して私の安息にあずからせはしない』と」。

・新しいイスラエルである新約の民は、古いイスラエルのこの失敗体験をもう一度知らねばならない。罪を犯さないように、キリストに結ばれている兄弟たちと励ましあい、教会につながり続けなさい。あなた方がキリストを捨てた時、神はあなたがたも捨てられると著者は警告する。

-ヘブル3:12-14「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、今日という日のうちに、日々励まし合いなさい。私たちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです」。

・著者は続ける「約束の地に入ることができる者は、御言葉を聞いて信じた者だけである」。

-ヘブル4:1-3「神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、私たちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。信じた私たちは、この安息にあずかることができるのです」。

・神は約束を果たされる方である。罪を犯した父祖たちは約束の地に入ることは出来なかったが、その子や孫はヨシュアに導かれてカナンの地に入った。その民に神は語られている「もうかたくなであってはならない」と。この言葉はあなた方にも語られている。神の救い=安息はまだ約束されているのだ。

-ヘブル4:8-9「もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。それで、安息日の休みが神の民に残されているのです」。

・しかし、地上のカナンは本当の意味での約束の地ではなかった。そこに神の国はなかった。そのため、民はまたも罪を犯し、地を追われてしまった。それがバビロンへの捕囚であった。捕囚からの帰還を赦された神は、私たちに新しい約束(キリスト)を与えてくださった。今度こそ、その約束から脱落してはいけない。

-ヘブル4:11「だから、私たちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません」。

・私たちは「世の国」を生きる。世の国の支配原理は力であり、その勢力は国境や民族によって制約される。そのため、世の国は、「国境」や「民族」を巡って力と力がぶつかって戦争を繰り返す。しかしイエスの国は、イエスを信じる者を国民とし、愛によって結び付けられている。神の国は国境や民族を越える真理を有する。神の国の住人として、どう生きるかが、私たちの課題だ。

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