1.雷を神とするカナンのバアル信仰に抗して
・詩編29編は自然の中に自己を啓示される神を示す。稲妻を光らせ、雷鳴をとどろかせる雷や嵐に、人は畏怖の念を覚え、これを神として拝しやすい。古代パレスチナの神バアルは雷神であり、日本人も雷を神の声(神鳴り)としてきた。しかしイスラエルは、雷は神ではなく、「被造物」にすぎないとして、栄光を主に帰せよと歌う。
-詩編29:1-2「神の子らよ、主に帰せよ、栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ」。
・エジプト人は太陽を神とし、メソポタミア人の主神は月であった。カナン人(フェニキア人)は、雨をもたらす雷神を主(バアル)と呼んだ。日本神話の須佐之男命(すさのおのみこと)も雨と嵐の神とされる。しかしイスラエルは自然を神格化しない。主なる神は混沌の大水を制して天地を創造された(創世記1:2)。自然が神ではなく、自然は神の啓示であるとの信仰を持って、イスラエルはカナンの神々と対決した。
-詩編29:3-4「主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます。主の御声は力をもって響き、主の御声は輝きをもって響く」。
・バアルの神に支配されているカナンの地、北のレバノンやヘルモンの山々、南のカデシュからエイラトに至る地域に主の御声が響き、人々はもだえる。ここでは主の御声が雷鳴に例えられている。
-詩編29:5-9「主の御声は杉の木を砕き、主はレバノンの杉の木を砕き、レバノンを子牛のように、シルヨン(ヘルモン)を野牛の子のように躍らせる。主の御声は炎を裂いて走らせる。主の御声は荒れ野をもだえさせ、主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。主の御声は雌鹿をもだえさせ、月満ちぬうちに子を産ませる」。
・レバノンの杉は高貴と誇りの象徴だ。しかし主は奢るものを砕かれる。
-イザヤ2:12「万軍の主の日が臨む、すべて誇る者と傲慢な者に、すべて高ぶる者に、彼らは低くされる。高くそびえ立つレバノン杉のすべてに、バシャンの樫の木のすべてに、高い山、そびえ立つ峰のすべてに、高い塔、堅固な城壁のすべて・・・その日には、誇る者は卑しめられ、傲慢な者は低くされ、主はただひとり、高く上げられる」。
2.自然を支配される主を称える
・カナンの人々は雷を神として畏れた。しかし、イスラエルは雷鳴を「神の声」として聞くのではなく、雷鳴を非神話化し、これを「主の御声の顕現」として聞く。何故ならば、彼らはすでに出エジプトの出来事を通して主なる神に出会っているから、雷を神とする偶像崇拝から抜け出している。
-詩編68:34「いにしえよりの高い天を駆って進む方に。神は御声を、力強い御声を発せられる。力を神に帰せよ。神の威光はイスラエルの上にあり、神の威力は雲の彼方にある」。
・人は絶対なる神に出会った時に、初めて自然や人を相対化できる。洪水も人も主の支配下にある。だから高い山を霊峰と呼び、権力者を神と呼ぶ必要はない。詩人は歌う「栄光を、神に帰せよ」。
-詩編29:10「主は洪水の上に御座をおく。とこしえの王として、主は御座をおく。どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように」。
・日本においては、高い山を霊峰と呼び、権力者を神と呼ぶ。富士山は霊峰とされて浅間神社の主神とされ、人を祭った明治神宮や乃木神社に詣でる。日本は人間の造り出した偶像神に囲まれており、カナンやアテネと同じ偶像礼拝の国だ。
-使徒言行録17:22-24「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った『アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、私は認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、知られざる神にと刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを私はお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません』」。
・荒野でサタンが「この石をパンに変えよ」と迫った時、イエスは言われた「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)。人間はパンという現実にとらわれるが、パンを含めて必要なものは主が与えてくださることを信じた時、パンを相対化できる。パンを相対化した者はパン以上のものを求める。
-マタイ6:31-33「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。
・全地は主のもの、人間はその管理を任せられている存在であることを知った時、人間は人間になっていく。
-詩編29:11「どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように」。
・詩篇29編は最初の1-2節で天における神の栄光が讃美されており、終わりの11節では地における平和が希求されている。イエスの降誕物語でルカの導入した賛美も同じ構造である。詩篇29編の語る思想と信仰が新約の世界に継承されている。
-ルカ2:13-14「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ』」。
3.偶像礼拝との戦い~バアルとエリヤ(列王記から)
・イスラエルでは繰り返し出てくる偶像礼拝の動きに対して、預言者が立てられ、これを糾弾する。エリヤやエリシャの働きがそうである。北イスラエル・オムリ王は、フェニキアの諸都市と外交関係を結び、商取引を盛んにし、息子アハブをツロの王エテバアルの娘イゼベルと縁組させた。このエテバアルは、ツロの主神メルカルト(バアル)の祭司でもあったので、イゼベルはバアル宗教をイスラエルに持ち込んだ。持ち込んだだけでなく、彼女は夫アハブが王位に即くと、夫に働きかけて、ヤハウェの礼拝を禁じた。ここにイスラエルの歴史においてヤハウェ宗教の最大の危機が訪れた。この危機の時に立てられたのが預言者エリヤであり、彼はイスラエルの伝統に基づいて王を非難した。
・イスラエルの伝統では、本来支配する方はヤハウェであり、王といえどもヤハウェの意志に背くことは許されない。そして王が自らの権力でもってヤハウェの意志に背いた時は、預言者が遣わされ、預言者は、ヤハウェから与えられた法に基づいて、王を非難し、また断罪した。この伝統は、イスラエルの王国時代ずっと続く、イスラエルの歴史の一つの特徴である。
・外国から嫁いだイゼベルはイスラエルの伝統とは無縁であるばかりでなく、本国の習慣に従って、王権を絶対的なものと考えた。そこで、ツロの宗教を普及させるために、ヤハウェの礼拝を禁じ、またヤハウェの預言者をすべて殺した。エリヤだけが神に守られて辛うじて生き残った。そしてエリヤは、フェニキアとの国境に近いカルメル山でバアルの預言者と対決し、勝利を収めた(列王紀上18章)。
・もう一つの事件は、アハブ王が隣接したナボテのぶどう畑を奪い取ったことである(21章)。こういうことは、ツロの王の場合は、罪に問われないかも知れないが、イスラエルの場合は、王といえども神の法に違反する場合は厳しく裁かれる。この事件の場合、アハブは隣人の畑をほしがり(第10戒違反)、偽証する人を雇い(第9戒違反)、石打ちの刑に処した(第6戒違反)。これに対してエリヤは神から遣わされて、アハブの家の断絶を伝えた。
・エリヤの後継者エリシャはその弟子を将軍エヒウのもとに遣わして、彼に油を注ぎ、アハブ王朝を断絶するように命じた。そこでエヒウは、オムリ王朝最後の王ヨラムに謀反を起こし、彼及び共にいたユダの王アハジヤを殺した(列王紀下9章)。オムリ王朝はユダの王家とも友好関係を結び、特にアハブとイゼベルの娘アタリヤは、ユダの王ヨラムの妃となっていた。エヒウ革命で殺されたアハジヤは、このアタリヤの息子であった。アタリヤは、息子アハジヤが殺された後、ダビデ王家の者をことごとく殺して、自ら王位に即いた。このアタリヤは、ユダ王国においてダビデ王家の者でない唯一の王である。さて、革命に成功したエヒウは、イゼベルをはじめオムリ王家に属するものをことごとく殺した。さらにエヒウは、ヤハウェ宗教に熱心であったレカブ人ヨナダブと協力して、偶像礼拝を一掃した(10章)。