江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年11月26日祈祷会(詩篇28編、主よ沈黙しないで下さい)

投稿日:

 

1.沈黙する神への嘆願の祈り

 

・詩編25-28編は沈黙の神に対する嘆願の祈りだ。祈り手は「主が御顔を隠された。それ故に苦難が自分に臨んでいる」と感じている。だから「沈黙しないで下さい」、「祈りを聞いて下さい」と彼は祈る。

-詩編28:1-2「主よ、あなたを呼び求めます。私の岩よ、私に対して沈黙しないでください。あなたが黙しておられるなら、私は墓に下る者とされてしまいます。嘆き祈る私の声を聞いてください。至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます」。

・祈り手は神殿の中庭にいて、神の臨在の場所である至聖所に向かって祈っている。「あなたが黙しておられるなら、私は墓に下る者とされてしまいます」、祈り手は何らかの理由により、告発され、裁判にかけられようとしている。悪人と共に滅ぼさないでほしい、助けてほしいと彼は祈る。

-詩編28:3「神に逆らう者、悪を行う者と共に、私を引いて行かないでください。彼らは仲間に向かって平和を口にしますが、心には悪意を抱いています」。

・詩人は自分を告発する者が裁かれ、その悪事が明らかになることを祈る。

-詩篇28:4-5「その仕業、悪事に応じて彼らに報いてください。その手のなすところに応じて、彼らに報い、罰してください。主の御業、御手の業を彼らは悟ろうとしません。彼らを滅ぼし、再び興さないでください」。

・人は救済を求めて神に叫ぶ。その叫びを神は聞いて下さる。イスラエルはかつてエジプトの奴隷からの救済を叫び、神はそれを聞かれた。それを知る故に彼はあくまでも叫び続ける。信仰とは過去の救いの想起だ。

-出エジプト記2:23-25「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」。

 

2.神は必ず応えられる

 

・28編は6節から感謝の言葉に変わっていく。「主は私の願いを聞いて下さった」と祈り手は歌う。

-詩編28:6-7「主をたたえよ。嘆き祈る私の声を聞いてくださいました。主は私の力、私の盾、私の心は主に依り頼みます。主の助けを得て私の心は喜び躍ります。歌をささげて感謝いたします」。

・神殿は裁判の行われる場所であり、祭司(油注がれた者)の口を通しての神託があり、彼の無罪が確定したのか知れない。祈りが見える現実として聞かれた体験が彼に神賛美を歌わせる。

-詩篇28:8-9「主は油注がれた者の力、その砦、救い。お救いください、あなたの民を。祝福してください、あなたの嗣業の民を。とこしえに彼らを導き養ってください」。

・彼は「人智を超えた神の恵み」に触れた。東北大学医学部の坪野吉孝氏も同じような経験を語る。

-「筆者はかつて多量飲酒者だったが、約10年前、苦しい状況で思わず祈りの言葉を口にしたとき、急に世界が明るく開けて感じる神秘体験をし、以来アルコールをまったく口にしていない。それ以前にも意志の力で酒をやめようと何度か試みたが、2か月と続かなかった。だから自分の意志以外の力が働きかけたとしか思えなかった・・・ジェラルド・メイはその著『依存症と恩寵』の中で『人は依存症の経験を通し、人智を超えた神の愛の恵みに触れることがある』と主張する」(2009年12月29日朝日新聞コラム)。

・自分では解決できない苦境に立たされた時、神を見失った現代人は,他者の助けを求めて走り回るか、絶望して自らの命を絶つしかない。しかし信仰者は苦難の底で神の名を呼ぶことができる。

-マタイ27:45-46「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』。これは『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である」。

・そしていかなる時も祈りは聞かれる。ただ、祈りの成就に時間が必要な時もあり(神の沈黙はそれを指す)、その成就が私たちの望む形ではない時もある。しかし、神は必ず私たちの祈りを聞かれる。それは確かだ。エレミヤがバビロン捕囚の絶望の中で聞いた神の声(捕囚は平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである)はその不思議さを伝える。

-エレミヤ29:10-12「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、私はあなたたちを顧みる。私は恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。私は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちが私を呼び、来て私に祈り求めるなら、私は聞く」。

・苦しみの渦中に在る者もまた神の御手の中にある。神は救うために一旦滅ぼされるとの信仰がエレミヤにはあった。だからエレミヤはエルサレム滅亡の渦中で、故郷に土地を買う。信仰者はどのような時にも希望を失わない。

-エレミヤ32:16-25「購入証書をネリヤの子バルクに渡したあとで、私は主に祈った「・・・間もなくこの都は剣、飢饉、疫病のゆえに、攻め囲んでいるカルデア人の手に落ちようとしています。あなたの御言葉どおりになっていることは、御覧のとおりです。それにもかかわらず、主なる神よ、あなたは私に、銀で畑を買い、証人を立てよと言われました。この都がカルデア人の手に落ちようとしているこの時に、です』」。

 

3.神の沈黙-遠藤周作「沈黙」から

 

・遠藤周作「沈黙」の中で、迫害下の長崎に潜入した主人公ロドリゴは信徒が処刑され、同僚の修道士も殺される中で山に逃げ込み、その山中でふと「神はおられないのではないか」とつぶやき、そのつぶやきに怯える。

-遠藤周作・沈黙から「その時、私はガルペと山に隠れていた時、夜、耳にした海鳴りの音を心に甦らせた・・・その海の波はモキチとイチゾウの死体を無関心に洗い続け、彼らの死の後にも同じ表情をしてあそこに拡がっている。そして神はその海と同じように黙っている。黙り続けている。『もし神がいなかったら』、杭にくくられ、波に洗われたモキチやイチゾウの人生は何と滑稽な劇だったのか、多くの海を渡ってこの国にたどり着いた宣教師たちは何という滑稽な幻影を見続けていたのか。そして今、山中を放浪している自分は何と滑稽な行為をしているのか」。

・そしてロドリゴが捕らえられ、踏み絵を強制される場面で、ロドリゴは「踏むが良い。私はお前たちに踏まれるために、この世に生れ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負った」との声を聴く。

-遠藤周作・沈黙から「その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭に向かって言った。踏むが良い。お前の足の痛さはこの私が一番よく知っている。踏むが良い。私はお前たちに踏まれるために、この世に生れ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。こうして司祭が踏み絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いていた」。

・多くのキリスト者は踏み絵を踏んだロドリゴを批判するが、彼はイエスの声を聴くことにより、救済されたのではないか。それが伝統的教えに反していても良いではないかと思える。

-矢内原伊作「神の沈黙に関していえば、神の声が聞こえないということは信仰がないということである、だがロドリコの場合、基督は沈黙していたのではなく、踏むが良い、それが愛だと語ったのであり、その声に従うことによって、彼は教会の神に背いて、別の信仰を得たのである」。

-

Copyright© 日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会 , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.