江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

聖書教育の学び

2020年10月25日聖書教育の学び (2015年6月4日祈祷会、コヘレト7:1-14、自らの限界をわきまえて生きる、) (2015年6月11日祈祷会、コヘレト7:15-29、たとえ人生が不条理であっても)

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1.死で終わる人生の現実の中で

 

・コヘレトは語る「名声は香油に優るが、死ぬ日は生まれる日に優る」と。名声は香油に象徴されるこの世の富に優るという諺に、コヘレトは「死ぬ日は生まれる日に優る」と付け加える。生の労苦が始まる誕生の時よりも、労苦の終わる死の時が好ましいとのコヘレト的厭世観なのだろうか。

-コヘレト7:1「名声は香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる」。

・死が命に優る故に、酒宴よりも弔いの席が、笑いよりも悩みの方が、好ましいとコヘレトは語る。一見逆説の様であるが、真実である。結婚式の説教は誰も聞かないが、葬儀説教には皆が耳を傾ける。その日がやがて来ることを知るからだ。

-コヘレト7:2-3「弔いの家に行くのは、酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終りがある。命あるものよ、心せよ。悩みは笑いにまさる。顔が曇るにつれて心は安らぐ」。

・死は人生の終わりであるが、知恵は「逃れられない死の現実」から人生を考えよと示す。当時の人々の平均寿命は30歳に達せず、いつも死を覚えて今を生きてきた。その短い人生は間延びした現代の長い人生よりも充実していたのではないかと思える。死を受容しない限り、真実な人生は生まれない。まさに「Memento mori(死を覚えよ)」である。

-コヘレト7:4「賢者の心は弔いの家に、愚者の心は快楽の家に向かう」。

・井上良雄は「復活後の時の中で」という説教(1973.04.29,信濃町教会主日礼拝説教)の中で、死を隠して生きる現代人の幸福の限界について語った。死を語ることを恐れる人生は真実ではない。

-井上良雄・復活後の時の中で「私たちは1週間前の礼拝で、『主は甦られた』ということを聞いた。しかしこの1週間の生活は前と何も変わらなかった。小さな悲しみと小さな喜びの中で、一喜一憂しながら、生活を続けた。復活の使信を聞いたのに、何故何も変わらなかったのだろうか。復活直後の弟子たちは、『イエスが復活された』との知らせを聞いたのに、戸を閉めて隠れていた。彼らを支配していたのは喜びではなく、恐怖だった。それは復活の知らせを聞いても引きこもっている私たちと同じではないか。パスカルは語った『人間は死と悲惨を癒やすことが出来ないので、自分を幸福にするためにそれらを考えないようにした』。岡本太郎もある時に語っている『私たちは死の前に衝立を置いて、そのこちら側で営まれている生活を幸福な生活とよんでいる。本当の幸福はそのような貧弱な幸福ではないではないか』」。

 

  1. 神の支配の中で中庸を求める

 

・7:5-7は賢者と愚者の間にある大きな隔たりを語る。賢者の叱責は知恵の始めであるが、愚者の果てしないおしゃべりは何の価値もない。

-コヘレト7:5-6「賢者の叱責を聞くのは、愚者の賛美を聞くのにまさる。愚者の笑いは鍋の下にはぜる柴の音。これまた空しい」。

・しかしその賢者も迫害の中では変節し、賄賂を貰えば人生を狂わせる。戦前の日本やドイツにおいて反戦を唱えていた新聞や雑誌も戦争賛美に変わり、現代の大学教授も簡単に金や権力になびく。研究費の不正流用や論文の捏造はありふれている。知恵と知識は異なるのだろうか。

-コヘレト7:7「賢者さえも、虐げられれば狂い、賄賂をもらえば理性を失う」。

・知恵と知識は異なる。知恵のある者は自分が逆境の時には変節しかねないことを認識する。知恵は知識を超える。人生を意味あるものにするのは知識ではなく知恵だ。

-箴言30:8-9「むなしいもの、偽りの言葉を、私から遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで、私を養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、私の神の御名を汚しかねません」。

 

3.自らの限界を知る生き方

 

・コヘレトは死を意識し、終わりという視点から、人生の意味を見出そうとする。彼にとって今をどう生きるかが、終わりをどう迎えるかより重要な生き方になる。彼が勧めるのは忍耐と平静である。

-コヘレト7:8-9「事の終りは始めにまさる。気位が高いよりも気が長いのがよい。気短に怒るな。怒りは愚者の胸に宿るもの」。

・愚か者は現在よりも過去を懐かしむ。現在がつまらないからだ。しかし、過去への愛着は現在の価値を減じる。それよりも「現在を如何に生きるかを考えよ」とコヘレトは語る。過去は過去であり、変えられない。

-コヘレト7:10「昔の方がよかったのはなぜだろうかと言うな。それは賢い問いではない」。

・知恵は与えられた遺産よりも価値がある。何故ならば、知恵は所有者に死を見つめる心を与え、それによって人はどのような逆境の中でも生きる力を与えられる。

-コヘレト7:11-12「知恵は遺産に劣らず良いもの。日の光を見る者の役に立つ。知恵の陰に宿れば銀の陰に宿る、というが、知っておくがよい、知恵はその持ち主に命を与える、と」。

・人間は神の業を見極めることが出来ない。何故喜びの後に悲しみがあるのか、何故人生にはこんなにも苦難があるのか、人にはわからない。その人間にできることは、神が曲げたもの=現実を受け入れる平静さではないかとコヘレトは語る。

-コヘレト7:13-14「神の御業を見よ。神が曲げたものを、誰が直しえようか。順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ、人が未来について無知であるようにと、神はこの両者を併せ造られた、と」。

・神が幸福を与えてくれるのであれば、不幸をも受け入れるべきだと知恵は言う(ヨブ記2:20)。それはそうだ、だが人はそれが出来ない。その時、響いてくる歌がある。ポール・マッカートニーの作詞した「あるがままに、Let it be」だ。平静さを教える歌だ。

-2014年3月5日説教から「ポール・マッカートニーの作った「Let it be」は名曲として知られていますが、最初の歌詞は次のようになっています。「When I find myself in times of trouble, Mother Mary comes to me Speaking words of wisdom ,Let it be. And in my hour of darkness, She is standing right it front of me Speaking words of wisdom, Let it be.」母マリアとはもちろんイエスの母マリアです。同時にポールの母親の名前はマリア(メアリー)であり、彼女は熱心なカトリック教徒で、ポール自身もカトリックの洗礼を受けています。母メアリー・マッカトニーはポールが14歳の時に亡くなっています。ポールがこの曲を書いた時、ビートルズは解散の危機にありました。書かれたのは1970年、ポールとジョン・レノンの考え方の違いから、もう一緒にはやっていけないのではないかと双方が思い始めていた時です。その時、夢枕に母メアリーが現れた。そして「全てを神様に委ねなさい」と彼に言った。その母からの言葉が、「Let it be」です。「Let it be」を「なるがままに」と訳すれば希望を失った人の言葉です。「御心のままに」と訳した時、この歌の本当の姿が見えてきます。私たちの人生には不条理があります。理解できない苦しみや災いがあります。希望の道が閉ざされて考えもしなかった道に導かれることもあります。しかしその導きを神の御心と受け止めていった時に、苦しみや悲しみが祝福に変わる経験を私たちはします。「御心のままに」とは、幸福も不幸も神の摂理(計画)の中にあることを信じて、その現実を受入れることです。救いはそこから始まります。「御心のままに」、「Let it be」、ここに聖書の信仰があります。ビートルズの「Let it be」は現代の賛美歌なのです」。

 

 

1.人生が不条理であっても

 

・コヘレトは人生の中に不条理があるのを見た。善人が必ずしも報われず、悪人が悪ゆえに滅ぼされることもない現実を彼は見つめる。

-コヘレト7:15「この空しい人生の日々に、私はすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえに長らえることもある」。

・この考え方はヨブに近い。ヨブも自分の正しさが認められないことに不満を持ち、「神は無垢な者も逆らう者も共に滅ぼされる」と恨みを言う。

-ヨブ記9:22「だから私は言う、同じことなのだ、と。神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手に委ねられている。神がその裁判官の顔を覆われたのだ。ちがうというなら、誰がそうしたのか」。

・コヘレトもヨブも無神論者ではない。ただ世の現実を見たことにより、神の摂理が信じられなくなっている。しかし、本当にそうだろうか。第二次大戦中のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)後、多くのユダヤ人は「神に見捨てられた」という思いをひきずっていた。「なぜ神は天上から介入して我々を救わなかったのか」、若いユダヤ人の中には信仰を棄てる人たちも出てきた。その時、ラビ・レヴィナスは、それは「大人の信仰ではなく、幼児の信仰だ」と語った。

-レヴィナスの言葉「人間が人間に対して行った罪の償いを神に求めてはならない。社会的正義の実現は人間の仕事である。神が真にその名にふさわしい威徳を備えたものならば、『神の救援なしに地上に正義を実現できる者』を創造したはずである。わが身の不幸ゆえに神を信じることを止めるものは宗教的には幼児にすぎない。成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるという形をとるはずである。」

(レヴィナス「困難な自由、ユダヤ教についての試論」内田樹訳、国文社(2008)。

・「神を信じる者だけが、神の不在に耐えることができる。成人の信仰とはそのようなものである」と20世紀のレヴィナスは語る。コヘレトもそれは感じている。だから彼さえも「自分を相対化せよ。そのためには絶対的な神を畏れよ」と語る。

-コヘレト7:16-18「善人すぎるな、賢すぎるな、どうして滅びてよかろう。悪事をすごすな、愚かすぎるな、どうして時も来ないのに死んでよかろう。一つのことをつかむのはよいが、他のことからも手を放してはいけない。神を畏れ敬えば、どちらをも成し遂げることができる」。

・自分を絶対視しない生き方こそ、この不条理な世で、人生をまっすぐに生きることを可能にする。「善のみ行って罪を犯さないような人間は、この地上にはいない」、「あなた自身も何度となく他人を呪った」、自分の罪を知ることにより、他者を赦すことが出来、そのことが人間関係をまっすぐにする。

-コヘレト7:19-22「知恵は賢者を力づけて、町にいる十人の権力者よりも強くする。善のみ行って罪を犯さないような人間は、この地上にはいない。人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても、聞き流していられる。あなた自身も何度となく他人を呪ったことを、あなたの心はよく知っているはずだ」。

・それはイエスが言われた「鳩のように素直に、蛇のように聡く」という生き方だ。

-マタイ10:16「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。

 

2.知恵によって生きる

 

・コヘレトは知恵を求めた。しかし知恵は与えられなかった。

-コヘレト7:23-25「私はこういうことをすべて、知恵を尽くして試してみた。賢者でありたいと思ったが、それは私から遠いことであった。存在したことは、はるかに遠く、その深い、深いところを誰が見いだせようか。私は熱心に知識を求め、知恵と結論を追求し、悪は愚行、愚行は狂気であることを悟ろうとした」。

・ヨブも知恵を求めたが与えられなかった。人は全てを知ることは出来ず、神の領域に属することは、人の目からは隠されている。

-ヨブ記28:21-23「すべて命あるものの目にそれは隠されている。空の鳥にすら、それは姿を隠している。滅びの国や死は言う「それについて耳にしたことはある」。その道を知っているのは神。神こそ、その場所を知っておられる」。

・隠れたる神の系譜は旧約聖書、マルティン・ルター、パスカル、カール・バルトに連なる考え方である。松木真一は「神の探求、現代のニヒリズム」の中で次のように語る。

-神の探求「マルティン・ブーバーは『生ける神は自己を啓示するばかりでなく、自己を隠す神である』とする 。神の隠れとは、神と人間との間に理性的自我が介入して神の光を遮断している状態を言う。神が顔を隠すことにより人間の責任が求められる。それをボンヘッファーは『神は彼岸の救済を意味するのではなく、人間を現実に向き合わせ、此岸での責任を負わせる。私たちは神の前に、神とともに、神なしで生きることが求められている』と表現する。現代人は成人した世界ではなく、未成人のままの世界であり、その中で人々はニヒリズムの暗闇に落ち込み、その結果自殺者が増加している。ニヒリズム(無関心)は無神論より悪い。無神論は神との対峙の中に生まれるが、無関心にはなにもない。無関心な状況においてはあらゆる関わりが断絶してしまう」。

 

3.コヘレトは女性蔑視論者なのか

 

・コヘレトは愚行の狂気を「誘惑する女性」の中に見た。

-コヘレト7:26-27「私の見いだしたところでは、死よりも、罠よりも、苦い女がある。その心は網、その手は枷。神に善人と認められた人は彼女を免れるが、一歩誤れば、そのとりことなる。見よ、これが私の見いだしたところ、コヘレトの言葉、一つ一つ調べて見いだした結論」。

・これは男性から見た視点だ。箴言でも女性はしばしば誘惑の対象として「気をつけよ」と注意されている。

-箴言7:21-27「彼女に説き伏せられ、滑らかな唇に惑わされて、たちまち、彼は女に従った。まるで、屠り場に行く雄牛だ。足に輪をつけられ、無知な者への教訓となって。やがて、矢が肝臓を貫くであろう。彼は罠にかかる鳥よりもたやすく、自分の欲望の罠にかかったことを知らない。それゆえ、子らよ、私に聞き従い、私の口の言葉に耳を傾けよ。あなたの心を彼女への道に通わすな。彼女の道に迷い込むな。彼女は数多くの男を傷つけ倒し、殺された男の数はおびただしい。彼女の家は陰府への道、死の部屋へ下る」。

・彼は言う「知恵ある男はいたが、知恵ある女はいなかった」、コヘレトは父権制社会の中で生きている。だから彼がこのような見解を持つのは止むを得ないかもしれない。

-コヘレト7:28「私の魂はなお尋ね求めて見いださなかった。千人に一人という男はいたが、千人に一人として、良い女は見いださなかった」。

・私たちはパウロの理解に、神の御心を見る「キリスト・イエスにあっては、男も女もない」。男だから、女だからという区別はない。あるのは人による能力差と教育の機会の有無であろう。

-ガラテヤ3:26-28「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。

・そして彼が最後に見出した結論は「人間の過ちの責任は人間にあるのであって、神にはない。人間の不幸や苦難は人間から来る」ことである。これはレヴィナスの考え方と同じだ。レヴィナスは語った「わが身の不幸ゆえに神を信じることを止めるものは宗教的には幼児にすぎない。成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるという形をとるはずである」。

-コヘレト7:29「ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる、ということ」。

・前述の松木真一は語る「コヘレトやヨブのような懐疑こそ、神を見出す道ではないかと。

-神の探求「現代人は神に対する懐疑を持たざるを得ない。しかしそれで良いのである。『疑うことを知らぬ信仰は死んだ信仰である』(ミゲル・ウナムーノ)。真摯な懐疑こそ信仰の確証を担保する。全てを無意味とするニヒリストも、現に生きており、その人の生は肯定され、受容されている。彼に足りないものは「受容されていることを受容する勇気」(ティリヒ)である。ニヒリスティックな現代人が神を経験できるとすれば、それは「懐疑する真剣さ」にかかっている。無神論・偶像崇拝・狂信は同じ平面上にある。私たちは疑いつつ、疑いきれないものに出会った時に、神を見出すのではないか」。

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