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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年5月14日祈祷会(詩篇1編、幸いだ、その人は)

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1.詩篇全体に対する序詞としての第1編

 

・詩篇はイザヤ書と並んで新約聖書に最も多く引用されている。イエスの公生涯は詩篇の引用で始まる。

-マルコ1:10-11「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』という声が、天から聞こえた」。

-詩編2:7「主の定められたところに従って私は述べよう。主は私に告げられた。『お前は私の子、今日、私はお前を生んだ』」。

・イエスの公生涯の最後も詩篇を引用して終えられている。

-マルコ15:34「三時にイエスは大声で叫ばれた『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』。これは『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である」。

-詩編22:2「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか。なぜ私を遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか」。

・初代教会にとって、聖書とは詩篇だった。新約をもう一度読み直すという視点でこれから詩篇を読んでいきたい。詩篇1編は全体の序文であり、「幸いだ、その人は」で始まる。詩篇は祝福から始まる。「教え=トーラーを毎日唱和し、それを守る人は幸いだ」と言われる。御言葉に生かされる生活の幸いが歌われる。

-詩篇1:1-2「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」。

・主の教えに従う者の生活は「流れのほとりに植えられた木」のようであり、彼は豊かな水(御言葉)に養われて、多くの実を結ぶと祝福される。

-詩篇1:3「その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば、実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」。

・パレスチナでは水は貴重だ。水脈に根を伸ばしていれば、その木は青々と葉を茂らせ、実を結ぶことが出来る。流れは用水路、木はなつめやしを指すのであろう。「流れのほとりに植えられた木」はエレミヤ17:7-8にあり、詩篇1編と構成が似ている。エレミヤ書を参考に造られたのではないか。

-エレミヤ17:7-8「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」。

・他方、律法を守らない人、主の教えに逆らう者は災いだと言われる。彼は脱穀(神の裁き)の後、風に吹かれるもみ殻のように消えてしまうと詩人は歌う。詩篇編集者は「邪悪な者が栄え、義人が苦しむ現実があることを知る」が、しかし「主はそのような現実を変えて下さる(神に従う人の道を主は知っていて下さる)」との信仰がここにある。

-詩篇1:4-6「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされる籾殻。神に逆らう者は裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。神に従う人の道を主は知っていて下さる。神に逆らう者の道は滅びに至る」。

 

2.詩編1編の信仰と思想

 

・詩編1編は、義人を水辺の樹木(エーツ)に、邪悪な者たちを風に吹き飛ばされる麦殻(モーツ)にたとえ、前者を神は祝福され(1:3「彼の行うことはみな成就する」)、後者は神に捨てられる(1:5「邪悪な者たちは裁きにあい」)とする。そこにあるのは、因果応報的な神信仰である。古代ユダヤにおいては、正しいとみなされた行為を行うならば幸福になり、悪いと見なされたことを行えば不幸になるという因果応報が前提とされた。詩編もその流れの中にあり、シナゴークで子供たちに教えられた。新約にも応報論はある。

-ガラテヤ6:7「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」。

・詩人は、「義人は幸福であり、悪人は不幸である」と言い切る。しかし人生においては、因果応報では説明できない事態がしばしば生じ、人はその前に立ちつくす。詩編の詩人たちもその現実を知っている。

-詩編37:7-11「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や、悪だくみをする者のことでいら立つな。怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。悪事を謀る者は断たれ、主に望みをおく人は、地を継ぐ。しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。貧しい人は地を継ぎ、豊かな平和に自らをゆだねるであろう」。

・その因果応報の破れを鋭く指摘するものが、「ヨブ記」や「コヘレト書」である。

-コヘレト1:1-4「コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり、永遠に耐えるのは大地のみ」。

・善と悪、幸と不幸を二分して固定化する応報的世界観の下では、「悪人が悪ゆえに栄え、善人が善ゆえに滅びる」現実社会の不条理は無視されてしまう。この様な因果応報論は時には因果関係を世代間に広げ、あるいは死後の世界へと延長して、人生の不条理を安易に合理化し、社会のゆがみや矛盾を正当化してきた。それに強く抗議されたのはイエスであった。

-ヨハネ9:1-3「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が、生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」。

 

3.山上の祝福との対比の中で

 

・幸いだ(ヘブル語アシュレイ)はギリシャ語訳聖書(70人訳)では(マカリオス)となる。マカリオスは「山上の祝福」の冒頭の言葉だ。イエスは詩篇1編を念頭に置かれながら山上の祝福を述べられたのではないか。

-マタイ5:3-4「心の貧しい人々は、幸いである(マカリオイ)、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである(マカリオイ)、その人たちは慰められる」。

・詩篇記者は、神はこの世の不条理を糾してくださると歌った。イエスはこの世では「正しい者が悲しみ、悪しき者が栄える」現実があることを見つめ、「その現実を神が糾すために自分を派遣された」と宣言される(イザヤ61章からの引用)。

-ルカ4:18-19「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。

・律法を守ることの出来ない人々を、パリサイ人たちは、「アム・ハ・アレツ(地の民)」として排除した。彼らは人間を「義人」と「罪びと」に二分し、罪びと(律法を守ることの出来ない者)を排除する。しかし、イエスは律法を守る人が幸いなのではなく、福音を聞き、それを信じる人こそが幸いなのだと言われた。ここに旧約(行為の戒め)を継承し、かつ超える新約(愛の戒め)がある。ルターが語るように、「人は義人にして罪人」なのである。

-マタイ21:31-32「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」。

・新約の視点から見れば、律法は廃すべきものであり、イエスによって福音の道が開けたと私たちは思う。しかし、イエスは律法を廃するためではなく、完成するために来たと言われる(マタイ5:17-18)。救いの条件としての律法ではなく、救われた恵み、応答として主の戒めを守っていくことこそ大事ではないか。

-ヤコブ2:14-17「私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか・・・信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」。

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