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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年2月18日祈祷会(エレミヤ書13章、亜麻布の帯と酒甕の預言)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.亜麻布の帯の預言と酒甕の預言

・前609年、改革を進めてきたヨシヤ王はエジプトとの戦いに戦死し、ヨシヤの子エホヤキムがエジプト王の後ろ盾で即位する。この頃、エレミヤが「亜麻布の帯の預言」をしたと伝えられる。亜麻布、今日でいうリンネルは高価な織物で、富裕な人々は、衣服を縛る帯として用いた。エレミヤはその帯を近在の岩山に隠せと命じられる。
−エレミヤ13:1-4「主は私にこう言われる『麻の帯を買い、それを腰に締めよ。水で洗ってはならない』。私は主の言葉に従って、帯を買い、腰に締めた。主の言葉が再び私に臨んだ『あなたが買って腰に締めたあの帯をはずし、立ってユーフラテスに行き、そこで帯を岩の裂け目に隠しなさい』」。
・多くの月日が経った後、同じ場所に行くと亜麻布は腐っていた。預言者の象徴行為であり、「高価であっても腐った帯が何の役にもたたない様に、神の腰を飾るユダも腐って無用のものになってしまった」ことを指し示す。
−エレミヤ13:5-7「そこで、私は主が命じられたように、ユーフラテスに行き、帯を隠した。多くの月日がたった後、主は私に言われた『立って、ユーフラテスに行き、かつて隠しておくように命じたあの帯を取り出しなさい』。私はユーフラテスに行き、隠しておいた帯を探し出した。見よ、帯は腐り、全く役に立たなくなっていた」。
・富裕な貴族が用いる高価な帯が腐る、王や官僚、祭司たち指導層の腐敗を示す行為を通して、エレミヤは人々に「神に用いられて帯になるのか、それとも神に棄てられて腐るのか」という選択を迫る。信仰とは神に固着することだ。神から離れた時、たとえどのような賜物が私たちに与えられていても、腐って無用の存在になる。
・次の酒甕の預言も同じような象徴預言であろう。「甕に酒を満たす」、酒飲みにはいくらでも酒が入るという当時の戯れ言であろう。エレミヤがそういうと、人々は「そんなことは知っている」と嘲笑する。エレミヤは反論する「わかっていないから、あなたがたは異民族の侵略という酒に酔うのだ」と。
−エレミヤ13:12-14「あなたは彼らにこの言葉を語りなさい『イスラエルの神、主はこう言われる。かめにぶどう酒を満たすべきだ』と。すると、彼らはあなたに言うだろう『かめにぶどう酒を満たすべきだということを我々が知らないとでも言うのか』と。あなたは彼らに言いなさい『見よ、私は、この国のすべての住民、ダビデの王座につくすべての王、祭司、預言者、エルサレムのすべての住民を酔いで満たす。私は、人をその兄弟に、父と子を互いに、打ちつけて砕く。私は惜しまず、ためらわず、憐れまず、彼らを全く滅ぼす』と主は言われる」。

2.悔い改めよ、まだ遅くない

・エレミヤは人々の嘲笑の中で預言を続ける「聞け、今なら間に合う。まだ救われる望みはある」。闇が襲わぬうちに光の中に出でよと。そうでなければあなたがたは滅びるのだ。
−エレミヤ13:15-17「聞け、耳を傾けよ、高ぶってはならない。主が語られる。あなたたちの神、主に栄光を帰せよ、闇が襲わぬうちに、足が夕闇の山でつまずかぬうちに。光を望んでも、主はそれを死の陰とし、暗黒に変えられる。あなたたちが聞かなければ、私の魂は隠れた所でその傲慢に泣く。涙が溢れ、私の目は涙を流す。主の群れが捕らえられて行くからだ」。
・エホヤキムはバビロンのネブカドネザルに反逆し、バビロン軍がエルサレムを包囲する中で死ぬ。その後を継いだエホヤキンに時代に語られた預言であろう。しかし、指導者たちは聞かず、エルサレムは陥落し、王や皇太后はバビロンへの捕囚となる。第一回バビロン捕囚である。この時はエレサレムの神殿も王宮も破壊されずに残された。
−エレミヤ13:18-22「王と太后に言え『身を低くして座れ。輝かしい冠はあなたたちの頭から落ちた』。ネゲブの町々は閉じられて開く者はなく、ユダはすべて捕囚となり、ことごとく連れ去られた。目を上げて、北から襲う者を見よ。あなたにゆだねられた群れ、輝かしい羊の群れはどこにいるのか・・・あなたは心に問うであろう『なぜ、このような事が私に起こるのか』。あなたの重い罪のゆえに着物の裾は剥ぎ取られ、辱めを受ける」。
・人は苦難にあうという「なぜ、このような事が私に起こるのか」。それは罪の故に生じる。人の罪はいくら洗ってもきれいにならない。エチオピア人の皮膚の色や豹の皮文様が変わらないように、人は罪から清められることはない。人は砕かれなければ悔い改めることはできない。だから裁きが必要だ。人は裁きなしには救われないのだ。
−エレミヤ13:23「クシュ人は皮膚を、豹はまだらの皮を変ええようか。それなら、悪に馴らされたお前たちも正しい者となりえよう」。
・私たちも同じだ。パスカルは言う「多数の人々が鎖につながれ、死刑を宣告されているさまを想像しよう。幾人かが日ごとに眼前で絞め殺され、残った者は、自分たちも同じ運命をたどることを悟り、悲しみと絶望の中で互いに顔を見合わせながら、自分の番がくるのを待っている。これが人間の状態なのである」。しかしまだ自分の番は来ないだろうと思う私たちは現在の生を貪る。順番は必ず来ることを教えるのが裁きなのではないか。

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