江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2009年7月2日祈祷会(イザヤ50章、反対者たちの迫害の中で)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.帰国をめぐっての共同体の分裂

・前539年のバビロン滅亡により、捕囚民は祖国帰還の道が開かれたが、全員が喜んで帰郷したのではない。最初の捕囚から50年、人々はバビロンに生活基盤を築いていた。それを捨ててまで、廃墟の祖国で苦労して再建作業に加わろうという者は少数だった。生活の現状維持を望む現実派と、帰郷運動に加わる理想派に共同体は分裂した。モーセに率いられた出エジプトの時も帰国派と反帰国派に共同体は分裂している。
-民数記16:12-14「モーセは人をやって、エリアブの子であるダタンとアビラムを呼び寄せようとしたが、彼らは言った『我々は行かない。あなたは我々を乳と蜜の流れる土地から導き上って、この荒れ野で死なせるだけでは不足なのか。我々の上に君臨したいのか。あなたは我々を乳と蜜の流れる土地に導き入れもせず、畑もぶどう畑も我々の嗣業としてくれない。あなたはこの人々の目をえぐり出すつもりなのか。我々は行かない』」。
・戦後の日本で在日朝鮮の人々の帰国運動が起こり、9万人が北朝鮮に戻ったが、この時も共同体は帰国派と滞在派に分かれた。そして帰国した人々を待っていたのは楽園ではなく、幻滅だった。イスラエルも同じ体験をする。出エジプト記に繰り返し語られる事実は、勇んで国を出た人も困難にあうと前にいた所に戻ろうとつぶやき始める事実だ。
―出エジプト記16:2-3「荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた・・・『我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている』」。
・第二イザヤは、主が解放の業をされたのにそれを喜ぼうとしない人々に、「お前たちは罪の赦しと救いが与えられようとしているのに、それを拒絶しようとしている」と説く。ルカ14:15-20・神の宴会への出席を断る人たちは象徴的だ。「畑を買いました」、「牛を買いました」、「妻を迎えました」、日常生活を優先する時、神の国は見えなくなる。
-イザヤ50:1-2「主はこう言われる『お前たちの母親を追い出したときの私の離縁状はどれか。お前たちを売り渡した時の債権者は誰か。お前たちの罪によってお前たちは売り渡され、お前たちの背きのために母親は追い出されたのだ。 何故、私が来ても、だれもいないのか。呼んでも答えないのか。私の手は短すぎて贖うことができず、私には救い出す力がないというのか』」。

2.その中で耐え忍ぶ主の僕

・主の僕はかたくなな民に語るために舌を与えられ、語るべき言葉を聞くために耳を与えられた。イエスも朝毎に祈って一日の宣教を始められた(マルコ1:35)。他者を慰めうる者は神からの慰めを通して力をいただく者だ。
-イザヤ50:4「主なる神は、弟子としての舌を私に与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとに私の耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる」。
・主の僕は神の言葉を語ったが、帰国に反対する者たちは僕に肉体的な危害を加え、精神的な屈辱を与え、更にはつばを吐きかける等の侮蔑行為も行ったらしい。僕はそれでも「神の言葉に逆らわず、神の命令に退かなかった」。
-イザヤ50:5-6「主なる神は私の耳を開かれた。私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」。
・それは主の正しさ(ミシュパート)が自分にあると信じるゆえだ。その信仰が僕に忍従を可能にした。
-イザヤ50:7-9「主なる神が助けてくださるから、私はそれを嘲りとは思わない。私は顔を硬い石のようにする。私は知っている、私が辱められることはない、と。私の正しさを認める方は近くいます。誰が私と共に争ってくれるのか。われわれは共に立とう。誰が私を訴えるのか。私に向かって来るがよい。見よ、主なる神が助けてくださる。誰が私を罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち、しみに食い尽くされるであろう」。
・主の僕は十字架の屈辱を耐えられたイエスのようだ。初代教会は「主の僕」の中にイエスの姿を見た。パウロはこの第二イザヤの言葉を引いて、苦難の中にあってもイエスがともにいて下さると証しする。
-ローマ8:31-34「もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか・・・だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれが私たちを罪に定めることができましょう」。
・「人を義としてくださるのは神である」、第二イザヤの主題も義(ヘセド)だ。彼は言う「行く手に幾多の困難があろうとも、御心であれば行くべきではないか」。「自らの松明を燃やす者」とは、バビロン陥落後の状況の中で、政治的な妥協を行って、うまく身を処す人々のことを指すのだろう。「彼らは倒される」とイザヤは預言する。
-イザヤ50:10-11「お前たちのうちにいるであろうか。主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし、松明を掲げている。行け、自分の火の光に頼って自分で燃やす松明によって・・・お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう」。

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