江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年6月14日祈祷会(士師記2章、土地は未占領のまま残された)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.とげとしての異邦人の存在

・イスラエルは約束の地カナンに入ったが、全ての土地は与えられず、先住民がその地に残った。それは歴史的には占領地の支配が難航したことを示すが、信仰的にはイスラエルに、目に見えるとげ、罠が与えられたことだ。
―士師記2:1-3「私はあなたたちをエジプトから導き上り、・・・先祖に与えると誓った土地に入らせ、こう告げた。私はあなたたちと交わした私の契約を、決して破棄しない、あなたたちもこの地の住民と契約を結んではならない・・・と。しかしあなたたちは、私の声に聞き従わなかった。・・・私は彼らを追い払って、あなたたちの前から去らせることはしない。彼らはあなたたちと隣り合わせとなり、彼らの神々はあなたたちの罠となろう」。
・荒野の民は苛酷な状況の中で主に従った。肥沃な地に入れば、厳しい労苦は不要になり、民は偶像礼拝に走る。ヨシュアの世代がいるうちは、民は主に仕えた。しかし、世代が変わると民は主を捨ててバアルの神に走った。
―士師記2:7-11「主がイスラエルに行われた大いなる御業をことごとく見た長老たちの存命中、民は主に仕えた。・・・その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった」。
・カナンで信仰されていたバアルは雷,稲妻,雨を支配し、豊かな収穫を与えると信じられていた。アシュタロテはバアルの配偶神で豊穰の女神である。農耕生活に移った民にとって、バアル崇拝は大きな誘惑だった。
―士師記2:12-13「彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えた」。
・偶像崇拝は先住民との婚姻を通してイスラエルの中に入ってきた。それは前にも起こったことだった。
―民数記25:1-3「イスラエルがシティムに滞在していたとき、民はモアブの娘たちに従って背信の行為をし始めた。娘たちは自分たちの神々に犠牲をささげるときに民を招き、民はその食事に加わって娘たちの神々を拝んだ。イスラエルはこうして、ペオルのバアルを慕ったので、主はイスラエルに対して憤られた」。

2.豊かな地における砕き

・主を裏切った民に対する措置は、敵の手に民を放置することだった。
―士師記2:14-15「主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。出陣するごとに、主が告げて彼らに誓われたとおり、主の御手が彼らに立ち向かい、災いをくだされた。彼らは苦境に立たされた」。
・民は苦難に陥ると主の名を呼び、主は士師を送られる。しかし、士師が死ぬとまた同じ堕落を犯す。
―士師記2:18-19「主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである。その士師が死ぬと、彼らはまた先祖よりいっそう堕落して、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏し、その悪い行いとかたくなな歩みを何一つ断たなかった」。
・主は言われた「イスラエルを試すために、私は異邦人を彼らの中に置く」。
―士師記2:20-22「主はイスラエルに対して怒りに燃え、こう言われた『この民は私が先祖に命じた私の契約を破り、私の声に耳を傾けなかったので、ヨシュアが死んだ時に残した諸国の民を、私はもうこれ以上一人も追い払わないことにする。彼らによってイスラエルを試し、先祖が歩み続けたように主の道を歩み続けるかどうか見る』」。
・最大の裁きは人が罪の中に放置されることだ。しかし、主はそうなさらない。民を愛しておられるからだ。主は、人を悔い改めに導くために、私たちに試練を与え、試練を通して、救いの道を開かれる。
―申命記8:2-5「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。・・・四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」。
―ヘブル12:4-12「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。・・・わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。・・・鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」。

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