江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年12月10日(イザヤ9:1-6、メシア待望の歌)

投稿日:2023年12月9日 更新日:

 

1.メシアの待望

 

・降誕節第二主日にイザヤの「メシア待望」預言を聞いていきます。イザヤは今から2700年前に立てられた預言者ですが、彼の預言はクリスマスになると繰り返し語られます。有名なインマヌエル預言はイザヤ7:14にあります。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」、初代教会はイザヤ7章のインマヌエル預言に、共におられる主イエス・キリストの誕生の意味を見出します。マタイは記します「マリアは男の子を産む・・・この子は自分の民を罪から救う・・・主が預言者を通して言われていたことが実現する『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』」(マタイ1:21-23)。

・イザヤ9:5もクリスマスに繰り返し読まれます。「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた」。初代教会はこの預言こそキリスト生誕を指し示すものと理解しました。さらにイザヤ11:1-2も良く知られたクリスマス預言です。「エッサイの株(ダビデの子)から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」。キリストはダビデの末として、ダビデの町ベツレヘムにお生まれになったと教会は理解しました。クリスマスになると大勢のキリスト者がベツレヘムを訪れます。

・イザヤの預言は直接的にはイザヤ時代の歴史の中で語られたもので、キリストの生誕を直接に預言したものではありません。しかし教会はイザヤ預言の中にキリスト生誕の意味を見出してきました。今週はイザヤ9章の預言(一人のみどりごが私たちのために生まれた)を読みながら、クリスマスの意味を探っていきます。イザヤ預言の背景には前734年に起こったシリア・エフライム戦争があります。パレスチナに勢力を伸ばすアッシリア帝国に対抗するためにパレスチナ諸国は、互いに防衛協定を結び、これを拒絶したユダにシリアとエフライム(北イスラエル)の軍隊が攻め寄せます。戦争の危機の中で、イザヤは、「神に信頼して鎮まりなさい。神が共におられる(インマヌエル)」と語りますが、時のアハズ王は聞かず、アッシリアの援助を要請します。

・イザヤは神に信頼しないアハズ王に絶望し、アハズの子ヒゼキヤに期待を寄せます。「おとめが身ごもって、男の子を産む」とは、アハズの子の生誕により平和が来るとの期待です。事実、アハズの子ヒゼキヤ王はアッシリアとの関係を絶ち、神殿から偶像を放逐します(列王記下18:5-7)。そしてイザヤは新しい王ヒゼキヤ王の即位を喜びます。それが「一人のみどりごが私たちのために生まれた」、第二のダビデとなるべき王(ヒゼキヤ)の即位の喜びです。「一人の男の子が私たちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(イザヤ9:5-6)。そこではダビデ王家の繁栄と平和が祈られています。

 

2.メシア預言

 

・イザヤはヒゼキヤ王に期待をかけ、彼を「平和の君」と称えましたが(9:5)、ヒゼキヤも現実政治の中では右往左往する王に過ぎず、やがてアッシリアに対抗するために、新興国バビロンの援助を求めてイザヤと対立します。イザヤはヒゼキヤに語ります「万軍の主の言葉を聞きなさい。王宮にあるもの、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものが、ことごとくバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来る、と主は言われる』」。(イザヤ39:5-6)。ヒゼキヤにも失望したイザヤは、新しいメシア(救い主)を待望する預言をします。それがイザヤ11:1-2です。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊」。

・「人間の平和」に期待できない預言者は、「神の平和」を祈り求めます。ダビデに主の霊が与えられたように、ダビデ王家(エッサイの株)からイスラエルを救う新しいダビデが現れることをイザヤは神に祈願しました。生まれるメシアは主を畏れ、主により頼みます。彼は、見える現実に惑わされることなく、人から聞いた話で判断しない。「彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない」(イザヤ11:3)。

・彼は正義を腰の帯とし、真実を身に帯びる。弱い人の援助者であり、貧しい人を虐げることはないとも預言されます。「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」(イザヤ11:4-5)。ダビデの末から主の霊が留まるようなメシアが生まれてくる、この新しい王の下でイスラエルはエデンの園にも似た神の平和に包まれるとイザヤは夢想します。それがイザヤ11:6-8の神の国預言です「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる」(イザヤ11:6-8)。続くイザヤ11:9-10では、国々の民は平和を求めてエルサレムに集うと預言されます「その日が来れば、エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く」。

 

3.後世の人々はこの預言をどのように聞いたのか

 

・イザヤの預言を継承したのが同時代のミカです。ミカの救済預言はアッシリアからの救済のためにダビデの末からメシアが生まれるとの預言です。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、私のためにイスラエルを治める者が出る。・・・彼こそ、まさしく平和である・・・アッシリアが我々の国土を襲い、我々の領土を踏みにじろうとしても彼らが我々を救ってくれる」(ミカ5:1-5)。マタイはこの預言をイエスの降誕物語に引用します「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。その時、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』・・・王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決して一番小さいものではない。お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者となるからである。』」(マタイ2:1-6)

・福音書記者ルカもイザヤの預言の中にキリスト生誕の意味を探っています。「天使は言った『恐れるな。私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである』」(ルカ2:10-11)。イエスご自身は自分が「イザヤの預言したメシア」であるとの自覚を持ち、語られます「『主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである』・・・イエスは『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」(ルカ4:18-21)。イザヤから700年後の新約記者たちがイザヤ11章のメシア預言の中にキリストの誕生を見ています。

・預言はその時には聴かれなくとも、後世に大きな希望の種を残します。それが預言(神の言葉)の本質です。神の子としてお生まれになったイエスは、形骸化した神殿体制の崩壊を預言され、祭司たちの反感を買われ、処刑されました。弟子たちはそのイエスの十字架の中に、身を捨てて民のために死んで行ったイザヤの面影を見ました。マタイは記します「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆癒された。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった『彼は私たちの患いを負い、私たちの病を担った』」(マタイ8:7)。イザヤ53章の預言の成就をマタイはここに表明しています。「イエスは私たちの患いを負い、私たちの病を担い、私たちのために死んで下さった」。この感謝がイエスの弟子を生み、私たちもその後継として招かれています。

 

3.キリストに在る愚者

 

・今日の招詞に使徒18:9-10を選びました。「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私があなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、私の民が大勢いるからだ』」。「この町には、私の民が大勢いる」、その幻が人々を生かし続け、イエスの弟子たちは世界中で福音を語り続けました。イエスが生きた時代は過酷な時代でした。ユダヤはローマの植民地であり、税金を払えない人は妻や子供たちを売り、それでも払えなければ投獄されました。人々は小作人として働き、地主に収穫の半分以上を取られ、飢饉の時には大勢の餓死者が出しました。病気になれば治療を受けることなく、人々は死んで行きました。人々は救い主(メシア)が来て、生活が良くなることを熱望していました。その人々にイエスは言われました「あなた方の救いは、今日私の言葉をあなたがたが耳にした時に成就した」と(ルカ4:21)。

・神が行為され、御子キリストが来られました。それを祝うのがクリスマスです。しかし、人々は言います「イエスが来られて2千年も経つのに、何も変わっていないではないか」。ゲルト・タイセンは「イエス運動の社会学」の中で語ります。「社会は変わらなかった。多くの者はイエスが期待したようなメシアでないことがわかると、イエスから離れて行った。しかし、少数の者はイエスを受入れ、悔い改めた。彼らの全生活が根本から変えられていった。イエスをキリストと信じることによって、『キリストにある愚者』が起こされた。このキリストにある愚者を通してイエスの福音が伝えられていった」。

・キリスト教信仰は世の常識からみれば愚かです。「イエスの十字架死により私たちの罪が赦された」、そんなばかな、この世はいまだに罪にあふれているではないかと人々は叫びます。「人は死んだら無に帰る」、多くの人がそう信じています。その中で私たちは、「そうではない。死を超えた命がある」と信じています。ある時、苦しみと悲しみの中でキリストに出会ったからです。贖罪、復活、永遠の命、それらは客観的に証明できない事柄です。しかし復活のキリストに出会った者は、それが真理であることを体験します。

・ある時、私たちは友や家族や会社に裏切られ、何も信じられなくなりました。しかし復活のキリストは「私は共にいる」と語ってくださいました。別な時、私たちは死の恐怖の中で凍り付きました。しかし復活のキリストは私たちに、「人生は死では終わらない」ことを示してくださいました。世の知恵は「人の理性」に訴えますが、神の知恵は「人の魂」を揺さぶります。このような魂の体験の中から信仰が生まれてきます。信仰者は「キリストにある愚者」になることによって、この世的な価値観(エゴ)から解放され、他者を支配するのではなく、他者のために生きる存在と変えられました。かつての私たちは相手を利用することも、攻撃することも、貪ることも平気で行なってきました。キリストを知る前の私たちは、損得勘定の中でしか人間関係を生きて来ませんでした。だから人間関係が破たんし、苦しんできました。その私たちがキリストとの出会いにより変えられた。「信仰は理性を超える」のです。

・私たちがなすべきことは、キリストを証ししていくことです。「神の国は来た、どこに、この教会に」、それを証していくことこそ、私たちの役割です。教会の外では「権力を持った人々が支配し、命令する」かもしれないが、教会の中では「仕えることに喜びを見出す」人々がいる。教会の外では「金の切れ目は縁の切れ目」かもしれないが、教会の中では「困っている人たちのためになすべきことをする」人々がいる。そのような教会を形成するのです。私たちは毎週日曜日に教会に集まり、礼拝をします。人々は経済的には豊かになりましたが、心は満たされていません。魂は飢え渇いています。だから毎年3万人の人がこの国では自死するのです。心の満たしを求めている人たちに声をかけていく、それが私たちの課題です。「この町には、私の民が大勢いる」、だから私たちは主日に教会に来て励まされ、世にキリストの福音を運び、実践する者として出ていきます。私たちが夢と幻を持ち、「この目であなたの救いを見た」という確信を証しすれば、神は必要な人を教会にお与えになる。それが伝道です。

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