江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

聖書教育の学び

2020年1月26日聖書教育の学び(2015年3月25日祈祷会、ヨハネ福音書6:22-71、命のパン)

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1.命のパン

 

・五千人にパンを与えたイエスは、夜の間にカファルナウムへ帰っていた。パンを食べて満腹した群衆は、「もっとパンがほしい」として、イエスを追いかけてきた。

-ヨハネ6:22‐24「その翌日、湖の向う岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。群衆はイエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。」

・イエスの与えた食べ物への群衆の期待が大きければ大きいほど、イエスは冷めていた。「食べればなくなる肉体の食べ物ではなく、永遠の命に至る霊の食べ物を求めよ」と、イエスは彼らを諭した。

-ヨハネ6:25‐27「そして、湖の向う岸でイエスを見つけると、『ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか』と言った。イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働き働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。』

・「永遠の命に至る食べ物を得るにはどうしたら良いか」と問う人々に、イエスは、「神が遣わした私を信じ、私の言葉を信じなさい」と説いた。しかし、彼らには通じず、「先祖が天からのマンナを食べたような奇跡を見せてくれたら信じる」と言う。彼らは肉体の食べ物にこだわり、イエスの教えが理解できない。

-ヨハネ6:28‐31「そこで彼らが、『神の業を行うためには、何をしたら良いでしょうか』と言うと、イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。』そこで、彼らは言った。『それでは、私たちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。私たちの先祖は荒れ野でマンナを食べました。「天からのパンを彼らに与えて食べさせた」と書いてあるとおりです。』」

・しかしイエスは、「天からのパンはモ-セが与えたのではなく、神が与えたのである。あなたがたの信仰は根底から誤っている」と指摘される。

-ヨハネ6:32‐33「するとイエスは言われた。『はっきり言っておく。モ-セが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、私の父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。』」

・人にとって命ほど大切なものはない。しかし、イエスは「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(マタイ4:4)と言われた。D.ボンヘッファーは語る。「われわれが、われわれのパンを一緒に食べている限り、われわれは極めて僅かのものでも満ち足りるのである。誰かが自分のパンを、自分のためだけに取っておこうとする時に、初めて飢えが始まる。これは不思議な神の律法である。二匹の魚と五つのパンで五千人を養ったという福音書の奇跡物語は、他の多くの意味と並んで、このような意味を持っているのではないか」(「共に生きる生活」から)。この社会は「誰かが自分のパンを、自分のためだけに取っておこうとする」社会だ。その社会の中で教会は、「一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ」(12:24)というイエスの言葉を聴いていく。

 

2.命のパンをめぐる誤解

 

・パンの奇跡に興奮し、食べるパンだけを求め続ける群衆に、イエスは「肉のパンではなく、命のパンを求めよ」と説かれたが、群衆には伝わらなかった。

-ヨハネ6:34‐37「そこで、彼らが、『主よ、そのパンをいつも私たちに下さい』と言うと、イエスは言われた。『私が命のパンである。私のもとへ来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたは私を見ているのに信じない。父が私にお与えになる人は皆、私のところに来る。私のところに来る人を、私は追い出さない。』」

・「私が命のパンである」、原典のギリシャ語では「エゴーエイミー(私は~である)、ホ・アルトス(そのパン)、テ・ゾーエー(命の)」だ。問題にされている命は「ゾーエー」としての命、人格的な命を指す。人間が生きるには生きがいが必要だ。誰かに必要とされている、誰かが自分のことを気にかけてくれると思うから生きていける。老人ホームに入居した人々が、衣食住に不自由がないのに、いつの間にかホームを牢獄のように思うようになるが、それは生きがいの喪失から来る。「生きていてもしょうがない」という時、動物としての命(ビオス)は生きていても、人格としての命(ゾーエ)は死んでいる。

・イエスは、ご自身が「神の御意により天からこの世に遣わされた」と群衆に語られた。

-ヨハネ6:38‐40「私が天から降って来たのは、自分の意志で行うのではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである。私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えて下さった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させるためである。私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることにあり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである。」

・人々は幼い頃のイエスとその両親を知っていた。「イエスが天から来た」とは、とても信じられなかった。

-ヨハネ6:41‐42「ユダヤ人たちは、イエスが、『私は天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、「私は天から降って来た」などと言うのか。』」

・イエスはユダヤ人のつぶやきを戒め、神を信じた者だけが自分のところへ来ることができ、世の終わりの日にはその人を復活させると語られた。

-ヨハネ6:43‐46「イエスは答えて言われた。『つぶやき合うのはやめなさい。私をお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれも私のもとへ来ることはできない。私は終わりの日にその人を復活させる。預言者の書に、「彼らは皆、神によって教えられる」と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、私のところへ来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。』」

・イエスは、出エジプトのマンナの例をあげ、霊の糧について教えた。出エジプトの民が荒野をさすらい、食糧が尽きた時、神は毎朝地上にマンナを降らせ民を養った。マンナは神が与えた食べ物だったが、食べた民は永久には生きられず、約束の地カナンへ入ったのは、その子や孫であった。マンナは肉の糧であり、それ以上ではなかった。イエスが与えるパンは、霊の糧なのである。

-ヨハネ6:47‐51「『はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。私は命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが死んでしまった。しかし、これは天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。私は天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである。』」

・群衆は肉の命を養うための地上のパンを求めた。イエスは地上のパンは父なる神が与えて下さるから、もっと大事なもの、命のパンを求めよと言われた。群集は納得しないし、私たちも納得していない。地上のパンは神が与えてくださることを信じていないからだ。だから、地上の命を支えるためのパンやお金を獲得するために私たちは忙しく生きる。しかし、地上のパンだけを追求して生きる時、本当に必要なもの、魂のパンを失うのだとイエスは言われる。

 

3.肉を食べ、血を飲む

 

・ユダヤ人たちは、イエスが与えるという肉を文字通り、口に入れる食肉だと思っていた。彼らは混乱し、激しく議論を始めた。

-ヨハネ6:52「それで、ユダヤ人たちは、『どうして、この人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』と、互いに激しく議論し始めた。」

・イエスは「私の肉を食べ、血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」と強調した。

-ヨハネ6:53‐56「イエスは言われた。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、いつも私の内におり、私もまたその人の内にいる。』」

・イエスは出エジプトのマンナの例を再びあげ、食べるパンと命のパンの違いを強調した。

-ヨハネ6:57‐59「『生きている父が私をお遣わしになり、また私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。』これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えられたことである。」

・「私の肉を食べるならばその人は生きる」、言葉を文字通りにとらえれば、グロテスクなおぞましいことだ。だから人々は反発する。イエスは「私が自分の肉を裂く=十字架で死ぬ、そのことによってあなたたちは生きるのだ」と言われているが、群衆は理解しない。初代教会はイエスの死を記念して聖餐式を持った。それは、イエスが十字架で裂かれた肉を記念してパンを食べ、イエスの流された血を覚えてぶどう酒を飲む行為だった。その聖餐式が外部からは、「彼らは人間の血を飲み、肉を食べている」との誤解を招いていた。そのことの反映がこのユダヤ人の反発の中にある。

 

4.永遠の命の言葉

 

・イエスとユダヤ人の「命のパン問答」を聞いていた多くの弟子たちは動揺した。

-ヨハネ6:60‐63「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか。』イエスは、このことについて弟子たちがつぶやいているのに気づいて言われた。『あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・・・。命を与えるのは霊である。肉は何の役にもたたない。私があなたたちに話した言葉は霊であり、命である。』」

・イエスは「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と言われる。聖餐式がイエスの十字架を記念しているのであれば、当然そこに血が出てくる。しかしこの「血を飲め」と言う言葉は非常な嫌悪感をユダヤ人に与えた。血はユダヤ人にとって特別な意味を持っていた。「血は命だから食べてはいけない」というのが律法の規定(レビ記17:14)だった。だからユダヤ人は血を含んだ肉は一切食べず、完全に血抜きをした肉(コーシエル)しか食べない。そのユダヤ人に向かって「私の血を飲め」と言われたのだから、ユダヤ人にとっては決定的な離反の言葉になって行く。イエスの元へ集まった多くの弟子たちも、イエスに躓き、離散してしまった。

-ヨハネ6:64‐65「『しかし、あなたたちのうちには信じない者たちもいる。』イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、ご自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして言われた。『こういうわけで、私はあなたがたに、「父からお許しがなければ、だれも私のもとに来ることはできない」と言ったのだ。』」

・しかし、十二人はイエスの元に残った。残った弟子の中にユダもいた。

-ヨハネ6:66‐69「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共の歩まなくなった。そこでイエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた。シモン・ペトロが答えた。『主よ、私たちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。』」

・ヨハネ6章を理解するためには、ここの言葉がイエスご自身の言葉ではなく、ヨハネ教会の信仰告白の言葉であることを知る必要がある。ヨハネ6章には、ヨハネ教会の聖餐式の式文が反映している。イエスの処刑によって散らされた弟子たちは、復活のイエスとの出会いを通して、「イエスこそ神の子なり」との信仰を与えられ、復活された日曜日を主の日として集まり、聖餐式を守った。彼らはパンを「キリストの体」として食べ、ぶどう酒を「キリストの血」として飲むことを通して、復活の主との共生を体験していった。「イエスが十字架で流された血、裂かれた肉こそが、私たちの霊の糧である」と信じるヨハネ教会は、ユダヤ人の誤解を招くことを承知の上で、あえて「血と肉」という言葉を用いる。

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