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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年9月15日説教(マタイ20:1-16、「この最後の者(トー・エスカトオー)にも」

投稿日:2019年9月14日 更新日:

 

 

篠崎キリスト教会 上原一晃

1.「ぶどう園の労働者」の喩え

 

・本日は、マタイ20章「ぶどう園の労働者」の喩えをご一緒に読んでいきます。この譬えはマタイだけが伝えています。喩えは、「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けと同時に出かけて行った」という言葉で始まっています。「(六時に)主人は、一日(夜明け~日没まで)につき一デナリオン(日当)の約束で、労働者をぶどう園に送りました。九時ごろ行ってみると、何もしないで(仕事にありつけないで)広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい(公平な)賃金を払ってやろう』と言った。それでその人たちは出かけて行った」(20:1-5a)。

・「主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った」(20:5b-7)。朝から仕事にあぶれ、それでも、ずっと立ち続けていた人たちを探して見つけ出し、あなたたちもぶどう園に行きなさい」と主人は語ります。彼らの賃金は約束されていません。

・律法(レビ 19:13)では、「雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない」と規定されています。「夕方になってぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った」(20:8)。最初に賃金を受け取ったのは最後に雇われた労働者たちでした。主人は一時間しか働いていない彼らに一デナリオンを払います。その後、全員に、一デナリオンずつ賃金は支払われました。最初から働いた人の賃金も同じでした。この主人の配分に、最初に雇われた人たちが苦情を言います「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと、この連中とを同じ扱いにするとは」(20:12)。しかし、主人はその一人に答えます。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい」(20:13-14a)。

 

2.この譬えは何を意味しているのか

 

・朝から働いた人たちは、最初に賃金を受け取れば、一デナリオンの仕事にありつけた事を喜び、主人に感謝したことでしょう。しかし一時間しか働かなった人が一デナリオンを受け取った事実を知った今は、約束通りの一デナリオンでは満足出来ません。イエスの時代、一デナリオンは家族が食べるのに必要な最低賃金でした。最後に来た者にもその家族が食べられる金額を主人は支払います。

・最初に来た者から賃金を払えばこのような不満は出なかったでしょうが、主人はあえて「最後に来た者から支払いを始めた」ため、最初に来た労働者「夜明け後から夕方まで働いた者」から不満がでています。物語は「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(20:16b)という言葉で締めくくられます。この譬えはどこに視点を置くかで印象がまるで違ってきます。多くの人は最初から働いた労働者の視点でこのたとえを聞きます。私もそうでした。

・主人は何故一時間しか働かない人に、一デナリオンを支払ったのでしょうか。それは一デナリオンがないと労働者とその家族は今日のパンが買えないからです。それは生きるための最低賃金なのです。マタイの記事によれば「5時から働いた人は怠けていたわけではなく、他の人たちと一緒に職を求めて朝から広場にいた」(20:6-7)、しかし労働に適さないと見られたのか、6時にも9時にも12時にも3時にも雇ってもらえなかった。父なる神は、この人々の悲しさを知って、彼らにも仕事を与え、その日のパンを買うだけの賃金を下さった。この個所は、新共同訳では、「20:6a 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので」とありますが、ギリシア語から直訳すると「五時ごろにもまた出て行き、広場のアチコチをくまなく探して、やっと別の朝からそこを離れずに仕事を求め続けずっと立ち続けている人々を見つけた。そして、仕事を与え、日用の糧となるパンを買う為の賃金を与えた」となります。今日の説教題は「この最後の者にも」です。最後の者も生きるために必要なものは与えられる、それが神の国の経済論理です。

・この主人の慈しみが人間をつまずかせます。丸一日働いて不平をいう人々に主人は言います「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、私の気前のよさをねたむのか」(20:14b-15)。ギリシア語で「気前のよさ」は「アガソス」、良いです。他方、妬むは「ホ オフィサルモス スウー ポネーロス」、「あなたの悪い目」です。この悪い目を持つ労働者とは、「自分は正しい」として他人を裁く目を持つ者です。一時間労働者の賃金が十二分の一デナリオンであれば満足したことでしょう。その結果、一時間労働者が今日生きるためのパンを買うことが出来なくとも、それは彼等の関知するところではない。この「悪い目」、他人を裁く悪い目こそ、神が最も忌み嫌うものです。

・今日の招詞にルカ15:23-24を選びました。「肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」。それを聞いた兄息子は怒ります「あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」(15:30)。ルカの「放蕩息子の兄」はマタイ20章と同じ「悪い目」を持っています。財産の分前を持って家を飛び出し、放蕩し全てを使い尽くし、飢餓に直面して家に戻る弟の帰還を父親は喜び、彼のために宴席を設けます「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」(ルカ15:24a)。それを聞いた兄息子は怒ります。家を出て行って何もかも失くした弟を無条件で許すことは、家のために忠実を尽くした兄には耐えられない。自分は正しいと思う人間は、罪人が救われることを喜ばず、罪人がその罪によって滅ぶことを願います。それが弟でもそうなのです。

・この「悪い目」を持つ労働者を主人は「ヘタイレ、友よ」と呼びます。「愛する者よ」との意味で、罪人への呼びかけです。これをマタイは他に2回記します。マタイ22:12「婚宴のたとえでの、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』」、マタイ26:50「裏切られ、逮捕される場面でのユダへの主の呼びかけ」です。罪人、裏切る者に「友よ」「愛する者よ」と呼び掛けられる神の愛、神は裏切り者でさえ友と呼びます。そこに無条件で徹底的な神の赦しがしめされています。

 

3.この最後の者にも(トー・エスカトオー)

 

・この世は、働けない者の悲しさや苦しさは考慮しません。この世の価値観は能力主義、業績主義であり、社会は労働能力の劣ったものを「役立たず」として切り捨てます。しかし、私たちがある人々を「役立たず」として切り捨てる時、実は私たち自身を切り捨てています。何故なら、私たちもいつかは、無能力者になるからです。病気になるかもしれない。失業して無収入になるかも知れない。年をとれば身体的、精神的能力は衰えます。他人に起こった不幸は自分にも起こり、能力主義の社会では何時敗者になるかわかりません。勝ち組も遅かれ早かれ負け組になります。「そこには平安がないではないか、それで良いのか」と神は言われているようです。

・この最後の者とは、社会から罪人として排斥されていた徴税人や娼婦を指すのでしょう。イエスは祭司長や民の長老たちに言われました「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」(マタイ21:31-32)。パリサイ人や律法学者は彼らの持つ「悪い目」のゆえに、天国の門に入ろうとしないとイエスは断言されました。この悪い目を私たちも持っており、聖書は私たちにも問いかけています。

・ぶどう園の喩えの物語は、マタイ19:30「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」の言葉の後から始まり、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(20:16)という言葉で閉じられています。私たちは人と人とを比較することが当然の社会に生きています。そして、他人と自分を比較して「自分のほうが良くやっているのに認められない」とか、「あの人は自分より怠けているのに良い思いをしている」と不満を言っています。逆に、病気の為、高齢の為に職が見つからない為、「自分は何もできないからダメだ」と落ち込んでしまうこともあります。今日の福音は、そういうところから私たちを解放し、もっと豊かな生き方へと私たちを招いています。イエスは「あなた方の天の父は、職を求めて朝から広場にいたのに誰も雇ってくれなかった、その悲しさや苦しみを知り、探し出して、救いの手を伸ばして下さる方だ」と言われます。「後にいる者が先になり、先にいる者は後になる」のです。マタイ20章は現代社会のあり方に警告を発する神からのメッセージであり、同時に私たちの悲しみや苦しみは決して無駄ではないという喜ばしい福音、共におられる神の愛を伝えるものなのです。

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